制定までの過程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/21 06:16 UTC 版)
明治前期の1881年(明治14年)、内務省から農商務省が分離した。その翌年、農商務省工務局調査課が設置され、そこで諸外国の労役法や工場条例といった諸制度、国内における職工や工場に関する状況について調査が行われた。この調査を元に、1887年(明治20年)に職工条例及び職工徒弟条例の草案が作られた。これらの法案では、年少者の就業制限のほか、職工条例では、工場主に対して義務教育未修了者や非免除者を通学させる義務を課し、職工徒弟条例では、16歳未満の徒弟への読書、習字、算術の教授義務を課す等、進歩的な内容であったが、「有害無益な翻訳趣味」として業界から反対され、また、政府内での調整もできず、結局これは公表には至らなかった。 明治後期になると、日清戦争を契機として、軍事工業をはじめとする諸工業が発展し、同時に工場労働者の数も飛躍的に増加した。このことは同時に、労働問題の発生にもつながり、1897年(明治30年)には労働組合期成会が設立されるなど、労働運動が本格化していった。同年、政府は職工法案を作成したが、財界の支持を得られないまま議会が解散され、廃案となった。 1898年(明治31年)、政府は前年の職工法案を修正し、工場法案を作成したが、これに対しても財界からの反対があった。そこで、翌年の1899年(明治32年)、保護規定を緩和する修正を加えたうえで議会に提出しようとしたが、内閣が総辞職となり、工場法案が提出されることはなかった。 1902年(明治35年)、議会において工場法を速やかに制定すべき旨の建議がなされ、政府も新しい工場法案を作成した。翌年の1903年(明治36年)には、農商務省から、詳細な労働調査研究結果を記した『職工事情』が刊行されたが、結局のこの法案も日露戦争の勃発によって制定には至らなかった。 日露戦争終結後の1909年(明治42年)、政府は再び議会に工場法案を提出した。このころには、年少者や女子労働者よりも熟練工を要求する重工業が発展していたため、大企業からは譲歩的な態度もみられるようになっていたものの、繊維産業や中小企業を中心として、特に女子の夜間労働禁止に対する反対が強く、1910年(明治43年)2月26日に法案は撤回された。1911年(明治44年)2月1日、政府は、深夜業禁止については15年間適用しないとする法案修正を行って法案を議会に提出し、同年3月20日、貴族院で可決し工場法は3月29日、公布された。 30年という年月を経て公布にこぎつけた工場法だったが、施行まではさらに5年を要し、1916年(大正5年)9月1日に施行された。1916年1月22日に工場法を6月1日から施行する旨公布され(勅令)、枢密院の反対のために、5月31日に、施行日を9月1日に改める旨公布された(勅令)。1月22日、工場法施行に備えて警視庁および大阪など8道府県の警察部に工場監督官を設置する旨公布された(勅令)。
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