再建非再建論争とは? わかりやすく解説

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再建・非再建論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 05:21 UTC 版)

法隆寺」の記事における「再建・非再建論争」の解説

明治時代半ば19世紀末頃)まで、法隆寺西院伽藍建物創建以来一度火災遭っておらず、飛鳥時代聖徳太子建立したものがそのまま残っていると信じられていた。しかし、歴史学建築史学進歩とともに現存する法隆寺伽藍火災一度失われた後に再建されたものではないかという意見再建論)が明治20年1887年)頃から出されるようになった焼失と再建疑われる時代には壬申の乱という大きな内乱起きており、第38代天智天皇息子である第39弘文天皇朝廷天智天皇の弟とされる大海人皇子敗北し大海人皇子が第40代天皇になっている。その大海人皇子鮮卑建てた北魏帝国)の文化の影響大きく受けていた人物であるという説もある。 非再建論の主張様式論)法隆寺建築様式は他に見られない独特なもので、古風な様式伝えている。薬師寺唐招提寺などの建築が唐の建築影響受けているのに対し法隆寺朝鮮半島三国時代や、隋の建築影響受けている。(関野貞) (尺度論)薬師寺などに使われている基準寸法は(645年大化の改新定められた)唐尺であるが、法隆寺使われているのはそれより古い高麗尺である。(関野貞) (干支一運錯簡論)『日本書紀』法隆寺焼失記事年代誤っており、干支一巡する60年前火災記事(『聖徳太子伝補闕記所収)を誤って伝えたものであろう。(平子鐸嶺再建論の主張聖徳太子伝補闕記』には荒唐無稽な記述多くこれをもって『日本書紀』の記述否定することはできない。(喜田貞吉再建時に元の礎石再使用すれば古い尺度使われることになるので、高麗尺使われているといって建設年代決定的な証拠にはならない。(喜田貞吉『日本書紀』天智天皇9年670年4月30日条には「夜半之後、災法隆寺、一屋無余」(夜半之後(あかつき)、法隆寺に災(ひつ)けり、一屋(ひとつのいえ)も余ること無し)との記述があり、これを信じるならば、法隆寺伽藍670年一度焼失し現存する西院伽藍はそれ以後再建ということになる。最初に再建論を唱えたのは旧水戸藩士歴史家菅政友とされ、黒川真頼国学者)、小杉榲邨国学者)も明治20年代再建論を唱えている。一方、『書紀』の当該記述信用できないとして、現存する西院伽藍推古朝のもので、焼けてはいないとの主張(非再建論)が関野貞建築史家)と平子鐸嶺美術史家)により、明治38年1905年)に相次いで発表された。建築史研究者である関野は、建築様式建築用いた尺度などの観点から、西院伽藍推古朝のものであるとした。関野によると、法隆寺西伽藍建築には、古い尺度である高麗尺使用されているが、大化元年645年)を境として以後唐尺使用されるようになった。したがって西院伽藍大化以前のものなければならないとする。平子は「干支一運錯簡説」を唱えた。『書紀』は干支による紀年法を採用しているが、干支60年一巡するため、『書紀』の法隆寺火災記事実年代から60年ずれているとする説である。『聖徳太子伝補闕記』(ふけつき)という書物に「庚午四月三十日夜半有災斑鳩寺」という記載があるが、平子はこの「庚午」を西暦670年ではなく聖徳太子在世中の610年のことであるとし、『書紀』の編者は、推古天皇18年610年)の庚午年に起きた火災の話を誤って60年後の天智9年670年)の庚午年の条に入れてしまった。また、610年火災小規模なもので、現存する西院伽藍推古朝から焼けていないと主張した。 これにただちに反論したのが歴史家喜田貞吉である。喜田は、焼失した伽藍が元の礎石用いて再建されたのなら、尺度も古い高麗尺使われているのは当然だとして関野説を批判した平子説については、『補闕記』には信用できない記述多くこれをもって書紀』の670年法隆寺火災記事否定することはできないとして、これをも退けたこうした再建論者・非再建論者論争法隆寺再建非再建論争)は昭和期まで続いた昭和期になると、関野貞足立康らが「二寺説」あるいは「新非再建論」と呼ばれる新説唱える関野従来自説改め、「二寺説」を発表した法隆寺境内現・西伽藍南東位置する空地には「若草伽藍跡」あるいは「若草寺跡」と呼ばれる場所があり、塔跡の古い礎石残されていた。関野は、用明天皇のために造られ薬師如来本尊とする伽藍西院伽藍)と、聖徳太子のために造られ釈迦如来本尊とする伽藍若草伽藍)とは別の寺であり、670年焼けたのは後者であるとした。二寺説は、古く北畠治房法隆寺村出身の元天誅組志士)という人物唱えていたが、論文として公刊されたものでなかったため、一般に知られていなかった。足立康の「新非再建論」(1939年)は、用明天皇のために造られ薬師如来本尊とする仮称用明寺」と、聖徳太子のために造られ釈迦如来本尊とする釈迦如来安置する仮称太子寺」とがあり、670年焼けたのは前者であるとする。後に足立は、2つ寺院対立していたのではなく一つ法隆寺中に釈迦像を祀る釈迦堂」があって、その後身が現・西伽藍であるとした。 1939年昭和14年)に、石田茂作らによって若草伽藍跡の発掘調査が行われた。その結果、この伽藍現存する西院伽藍(塔と金堂が東西に並ぶ)とは異なり、南に塔、北に金堂南北方向配置される四天王寺式伽藍配置」であること、堂塔真南面しておらず、伽藍配置中心軸北西方向へ20度ずれていることがわかった一方現存する西院伽藍堂塔は南を正面とし、伽藍中心軸はほぼ地図上の南北一致している(正確に北東方向3度ずれている)。したがって、仮に「若草寺」と「法隆寺」の2寺が同時に存在してたとすると、中心軸方角大きく異な伽藍近接して建っていたことになり、不自然である。また、若草伽藍跡から出土した瓦は、単弁蓮華文軒丸瓦手彫り忍冬唐草文軒平瓦組み合わせた、古い様式のものであったこうしたことから、若草伽藍跡こそが創建法隆寺であり、これが一度焼失した後にあらため建てられたものが現存する法隆寺西伽藍であるということは定説となっている。 『資財帳によれば持統天皇7年693年)、法隆寺にて仁王会が行われ、天蓋等が施入されていることから、現・西伽藍のうち、少なくとも金堂この年までには建立されていたとみられる同じく資財帳によれば和銅4年711年)には五重塔初層安置塑像群と、中門安置金剛力士仁王)像が完成しており、同年頃までには五重塔中門含めた西院伽藍建立されていたとみられる。以上のように、「再建非再建論争」に関して再建論に軍配上がった形である。ただし、創建法隆寺焼失は『書紀』のいう670年であったか否か皇極天皇2年643年の上王家聖徳太子の家)滅亡後誰が西院伽藍再建したのか、現存西院伽藍創建法隆寺とは別の位置建てられ建物方位異なっているのはなぜか(現存西院伽藍がほぼ南北方向中軸線に沿って建てられているのに対し旧伽藍中軸線はかなり北西方向に傾斜している)、金堂五重塔などの正確な建立年はいつか、現・西金堂安置釈迦三尊像と薬師如来像は本来どこに安置されていたのかなど、未解明の謎はまだ残っている。現・西伽藍のある土地は、かつて存在した尾根削り両側の谷を埋めて整地した後に建てられたことがわかっており、なぜそのような大規模な土木工事をしてまで伽藍位置移したのかも謎である。 非再建論の主な論拠建築史上の様式論であり、関野貞の「一つ時代には一つ様式対応する」という信念基底にあった一方再建論の論拠文献であり、喜田貞吉は「文献否定して歴史学成立しない」と主張した論争長期に及びなかなか決着を見なかったが、1939年昭和14年)、石田茂作によって聖徳太子当時のものである考えられる前身伽藍四天王寺式伽藍配置いわゆる若草伽藍」の遺構発掘されたことで、再建であることがほぼ確定した。また「昭和大修理」で明らかになった新事実現在の法隆寺礎石転用されたものであること、金堂天井残されていた落書き様式など)もそれを裏付けている。 2004年12月若草伽藍跡の西側で、7世紀初頭描かれたと思われる壁画片約60点の出土発表された。この破片は1,000上の高温さらされており、建物内部にあった壁画さえも焼けた大規模な火事であった推察される。壁と共に出土した焼けた瓦は7世紀初頭飛鳥様式であり、壁画様式も線の描き方が現・法隆寺のものより古風であるという。出土した場所は、当時深さ約3メートルほどの谷であったところで、焼け残った瓦礫としてここに捨てられたと見られている。実際に焼失裏付ける考古遺物多数発見された。

※この「再建・非再建論争」の解説は、「法隆寺」の解説の一部です。
「再建・非再建論争」を含む「法隆寺」の記事については、「法隆寺」の概要を参照ください。

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