再建・非再建論争
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明治時代の半ば(19世紀末頃)まで、法隆寺の西院伽藍の建物は創建以来一度も火災に遭っておらず、飛鳥時代に聖徳太子の建立したものがそのまま残っていると信じられていた。しかし、歴史学や建築史学の進歩とともに、現存する法隆寺の伽藍は火災で一度失われた後に再建されたものではないかという意見(再建論)が明治20年(1887年)頃から出されるようになった。 焼失と再建が疑われる時代には壬申の乱という大きな内乱が起きており、第38代天智天皇の息子である第39代弘文天皇の朝廷が天智天皇の弟とされる大海人皇子に敗北し、大海人皇子が第40代天皇になっている。その大海人皇子は鮮卑の建てた北魏(帝国)の文化の影響を大きく受けていた人物であるという説もある。 非再建論の主張 (様式論)法隆寺の建築様式は他に見られない独特なもので、古風な様式を伝えている。薬師寺、唐招提寺などの建築が唐の建築の影響を受けているのに対し、法隆寺は朝鮮半島三国時代や、隋の建築の影響を受けている。(関野貞) (尺度論)薬師寺などに使われている基準寸法は(645年の大化の改新で定められた)唐尺であるが、法隆寺に使われているのはそれより古い高麗尺である。(関野貞) (干支一運錯簡論)『日本書紀』の法隆寺焼失の記事は年代が誤っており、干支が一巡する60年前の火災の記事(『聖徳太子伝補闕記』所収)を誤って伝えたものであろう。(平子鐸嶺) 再建論の主張 『聖徳太子伝補闕記』には荒唐無稽な記述が多く、これをもって『日本書紀』の記述を否定することはできない。(喜田貞吉) 再建時に元の礎石を再使用すれば古い尺度が使われることになるので、高麗尺が使われているといっても建設年代の決定的な証拠にはならない。(喜田貞吉) 『日本書紀』天智天皇9年(670年)4月30日条には「夜半之後、災法隆寺、一屋無余」(夜半之後(あかつき)、法隆寺に災(ひつ)けり、一屋(ひとつのいえ)も余ること無し)との記述があり、これを信じるならば、法隆寺の伽藍は670年に一度焼失し、現存する西院伽藍はそれ以後の再建ということになる。最初に再建論を唱えたのは旧水戸藩士で歴史家の菅政友とされ、黒川真頼(国学者)、小杉榲邨(国学者)も明治20年代に再建論を唱えている。一方、『書紀』の当該記述は信用できないとして、現存する西院伽藍は推古朝のもので、焼けてはいないとの主張(非再建論)が関野貞(建築史家)と平子鐸嶺(美術史家)により、明治38年(1905年)に相次いで発表された。建築史の研究者である関野は、建築様式や建築に用いた尺度などの観点から、西院伽藍は推古朝のものであるとした。関野によると、法隆寺西院伽藍の建築には、古い尺度である高麗尺が使用されているが、大化元年(645年)を境として以後は唐尺が使用されるようになった。したがって、西院伽藍は大化以前のものでなければならないとする。平子は「干支一運錯簡説」を唱えた。『書紀』は干支による紀年法を採用しているが、干支は60年で一巡するため、『書紀』の法隆寺火災の記事は実年代から60年ずれているとする説である。『聖徳太子伝補闕記』(ふけつき)という書物に「庚午年四月三十日夜半有災斑鳩寺」という記載があるが、平子はこの「庚午」を西暦670年ではなく聖徳太子在世中の610年のことであるとし、『書紀』の編者は、推古天皇18年(610年)の庚午年に起きた火災の話を誤って60年後の天智9年(670年)の庚午年の条に入れてしまった。また、610年の火災は小規模なもので、現存する西院伽藍は推古朝から焼けていないと主張した。 これにただちに反論したのが歴史家の喜田貞吉である。喜田は、焼失した伽藍が元の礎石を用いて再建されたのなら、尺度も古い高麗尺が使われているのは当然だとして関野説を批判した。平子説については、『補闕記』には信用できない記述が多く、これをもって『書紀』の670年法隆寺火災の記事を否定することはできないとして、これをも退けた。こうした再建論者・非再建論者の論争(法隆寺再建非再建論争)は昭和期まで続いた。 昭和期になると、関野貞、足立康らが「二寺説」あるいは「新非再建論」と呼ばれる新説を唱える。関野は従来の自説を改め、「二寺説」を発表した。法隆寺の境内、現・西院伽藍の南東に位置する空地には「若草伽藍跡」あるいは「若草寺跡」と呼ばれる場所があり、塔跡の古い礎石が残されていた。関野は、用明天皇のために造られた薬師如来を本尊とする伽藍(西院伽藍)と、聖徳太子のために造られた釈迦如来を本尊とする伽藍(若草伽藍)とは別の寺であり、670年に焼けたのは後者であるとした。二寺説は、古くは北畠治房(法隆寺村出身の元天誅組志士)という人物が唱えていたが、論文として公刊されたものでなかったため、一般には知られていなかった。足立康の「新非再建論」(1939年)は、用明天皇のために造られた薬師如来を本尊とする仮称「用明寺」と、聖徳太子のために造られた釈迦如来を本尊とする釈迦如来を安置する仮称「太子寺」とがあり、670年に焼けたのは前者であるとする。後に足立は、2つの寺院が対立していたのではなく、一つの法隆寺の中に釈迦像を祀る「釈迦堂」があって、その後身が現・西院伽藍であるとした。 1939年(昭和14年)に、石田茂作らによって若草伽藍跡の発掘調査が行われた。その結果、この伽藍は現存する西院伽藍(塔と金堂が東西に並ぶ)とは異なり、南に塔、北に金堂が南北方向に配置される「四天王寺式伽藍配置」であること、堂塔が真南に面しておらず、伽藍配置の中心軸が北西方向へ20度ずれていることがわかった。一方、現存する西院伽藍の堂塔は南を正面とし、伽藍の中心軸はほぼ地図上の南北に一致している(正確には北東方向へ3度ずれている)。したがって、仮に「若草寺」と「法隆寺」の2寺が同時に存在していたとすると、中心軸の方角が大きく異なる伽藍が近接して建っていたことになり、不自然である。また、若草伽藍跡から出土した瓦は、単弁蓮華文の軒丸瓦と手彫り忍冬唐草文の軒平瓦を組み合わせた、古い様式のものであった。こうしたことから、若草伽藍跡こそが創建法隆寺であり、これが一度焼失した後にあらためて建てられたものが現存する法隆寺西院伽藍であるということは定説となっている。 『資財帳』によれば、持統天皇7年(693年)、法隆寺にて仁王会が行われ、天蓋等が施入されていることから、現・西院伽藍のうち、少なくとも金堂はこの年までには建立されていたとみられる。同じく『資財帳』によれば、和銅4年(711年)には五重塔初層安置の塑像群と、中門安置の金剛力士(仁王)像が完成しており、同年頃までには五重塔、中門を含めた西院伽藍が建立されていたとみられる。以上のように、「再建非再建論争」に関しては再建論に軍配が上がった形である。ただし、創建法隆寺の焼失は『書紀』のいう670年であったのか否か、皇極天皇2年(643年)の上宮王家(聖徳太子の家)滅亡後、誰が西院伽藍を再建したのか、現存の西院伽藍が創建法隆寺とは別の位置に建てられ、建物の方位も異なっているのはなぜか(現存の西院伽藍がほぼ南北方向の中軸線に沿って建てられているのに対し、旧伽藍の中軸線はかなり北西方向に傾斜している)、金堂、五重塔などの正確な建立年はいつか、現・西院金堂安置の釈迦三尊像と薬師如来像は本来どこに安置されていたのかなど、未解明の謎はまだ残っている。現・西院伽藍のある土地は、かつて存在した尾根を削り、両側の谷を埋めて整地した後に建てられたことがわかっており、なぜそのような大規模な土木工事をしてまで伽藍の位置を移したのかも謎である。 非再建論の主な論拠は建築史上の様式論であり、関野貞の「一つの時代には一つの様式が対応する」という信念が基底にあった。一方、再建論の論拠は文献であり、喜田貞吉は「文献を否定しては歴史学が成立しない」と主張した。論争は長期に及びなかなか決着を見なかったが、1939年(昭和14年)、石田茂作によって聖徳太子当時のものであると考えられる前身の伽藍、四天王寺式伽藍配置のいわゆる「若草伽藍」の遺構が発掘されたことで、再建であることがほぼ確定した。また「昭和の大修理」で明らかになった新事実(現在の法隆寺に礎石が転用されたものであること、金堂天井に残されていた落書きの様式など)もそれを裏付けている。 2004年12月、若草伽藍跡の西側で、7世紀初頭に描かれたと思われる壁画片約60点の出土が発表された。この破片は1,000℃以上の高温にさらされており、建物の内部にあった壁画さえも焼けた大規模な火事であったと推察される。壁と共に出土した焼けた瓦は7世紀初頭の飛鳥様式であり、壁画の様式も線の描き方が現・法隆寺のものより古風であるという。出土した場所は、当時深さ約3メートルほどの谷であったところで、焼け残った瓦礫としてここに捨てられたと見られている。実際に焼失を裏付ける考古遺物が多数発見された。
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