再建築
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 14:13 UTC 版)
「聖デイヴィッド大聖堂」の記事における「再建築」の解説
1171年と1172年のイングランド王ヘンリー2世の訪問において、デイヴィッドの崇拝者は増加し、より大きな大聖堂の必要性が見られた。現在の大聖堂は、主教ピーター・ド・レイア(英語版)(1176-1198年)のもと、1181年(もしくは1182年)に着工され、おそらく補佐役のジェラルド・オブ・ウェールズ(英語版)(ジェラルド・ド・バリ〈ギラルドゥス・ド・バリ、Giraldus de Barri〉)と共同で、間もなく完成した。その初期の段階に新しい建造物およびその一帯を襲った問題としては、1220年の新しい塔の崩壊や、1247年ないし1248年の地震による被害がある。その後、1275年に聖デイヴィッドの祠堂が建立されている。 14世紀中頃、主教ヘンリー・ガウアー(英語版)(1328-1347年)のもとで大聖堂は内陣障壁(英語版)をもつ身廊やクワイヤなどのほか、さらに大規模な改装が施され、また、主教宮殿(英語版)(セント・デイヴィッズ主教宮殿)が、ガウアーの監督制の不変的記念物として計画・構築された(宮殿は今日多くが崩壊している)。 1365年、主教アダム・ホートン(英語版)とそれにジョン・オブ・ゴーントは、セント・メアリーズ・カレッジ (St Mary's College) と礼拝堂 (Chantry) の構築した。彼は後に大聖堂にそれを接続する回廊の追加にも着手した。 16世紀、主教エドワード・ヴォーン(Edward Vaughan、1509-1522年)のときには、扇形ヴォールトを用いた聖三位一体礼拝堂 (Holy Trinity chapel) の建造が見られた。また、この時代には屋上およびオークの天井が1530-1540年にかけて構築され、身廊の大きな進展が見られる。プロテスタントとしての主教ウィリアム・バーロウ(William Barlow、1536-1548年)は、歴代の主教とは異なり、デイヴィッドに追随することへの抑制を図り、聖デイヴィッドの祠堂から宝飾を剥奪し、1538年には「迷信」を打ち消すために、聖デイヴィッドおよび同時代の聖ユスティニアン(英語版)の遺物を取り除いた。1540年には、リッチモンドの伯爵でヘンリー7世の父であるエドマンド・チューダーの亡き骸が、カーマーゼンの解散したグレイフライアー小修道院 (Greyfriars' Priory) の墓から運ばれ、祭壇のある内陣の手前に安置されている。 オリバー・クロムウェルのもとでのイングランド共和国の設立は、多くの大聖堂や教会、特にセント・デイヴィッズにも大きな影響をもたらした。1648年、大聖堂はほとんど議会の部隊により破壊され、主教の宮殿の屋根からは鉛が剥ぎ取られた。
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