再建後の分院(青山)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 01:02 UTC 版)
青山脳病院を焼失後は郊外の松原で再建するまで、焼け跡のバラックを仮診療所として診療を続けたが、当地で精神病院を再建しない旨の地主との約束に従いバラックを壊し、1929年(昭和4年)に診療所と茂吉と家族のための居宅のみを建設した。 診療所は脳神経科を標榜して形式上は精神病院ではなく、入院許可患者は30名までに規定された。建物は中庭のある方形の二階建てで、1階に10病室、2階に特別病室を設け、玄関に円形の車廻しを備え、鉄筋作りのクリーム色のガレージやアオキの植え込みを配した瀟洒な作りであった。 芥川龍之介は斎藤茂吉の知己で患者でもあったが、茂吉の元で受診中の1927年(昭和2年)7月に服毒自殺した。芥川の作品に青山脳病院とみられる病院が描かれている。 1945年(昭和20年)5月25日にアメリカ軍の東京大空襲で被災して全焼した。茂吉の子息の北杜夫が『楡家の人びと』に当時の惨状を詳しく記している。
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