旧伽藍とは? わかりやすく解説

旧伽藍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 00:56 UTC 版)

寛永寺」の記事における「旧伽藍」の解説

すでに述べたように、現在の上野公園のほぼ全域往時寛永寺境内であった松坂屋上野店あたりから上野公園入口あたりの道をかつて「広小路」と称したが、これは将軍寛永寺にある徳川秀忠らの霊廟参詣するための参道であり、防火の意味道幅広げていたため、広小路呼ばれた上野公園入口付近には「御橋」または「三橋」と称するがあって寺の正面入口となっており、その先総門にあたる「黒門」があった。上野公園内中央を通り大噴水東京国立博物館方面へ向かう道がかつての参道であり、文殊その先法華堂常行堂多宝塔輪蔵根本中堂本坊などがあった。その周囲には清水観音堂現存)、五重塔現存)、東照宮現存)、不忍池中島に建つ弁天堂現存する20世紀再建)などが建ちまた、36か院にのぼる子院があった。 天海江戸寛永寺との関係を、京都比叡山の関係になぞらえて構想していた。すなわち、根本中堂法華堂常行堂などは比叡山延暦寺にも同名建物があり、清水観音堂京都清水寺なぞらえたもの(傾斜地に建つ建築様式類似する)、不忍池中島弁天堂は、琵琶湖とそこに浮かぶ竹生島宝厳寺弁才天ならったのである。 かつて存在した建物 根本中堂 - 他の諸堂より遅れて元禄11年1698年落慶現在の上野公園大噴水のあたりにあり、重層入母屋造間口45.5メートル奥行42メートル、高さ32メートルという壮大な規模仏堂であった中堂前に方形回廊めぐらし正面唐門設けていた。 本坊 - 根本中堂の裏現在の東京国立博物館敷地にあった前述のとおり、正門のみが上野戦争焼け残り、しばらくは博物館正門として使用されていたが、その後博物館の東の輪王寺移築されている。博物館本館裏の日本庭園寛永寺本坊庭園名残りである。 法華堂常行堂 - 入母屋造同形仏堂2棟左右に並べその間屋根付きの高廊下繋いだもので、参詣者は高廊下の下をくぐって根本中堂向かった寛永4年1627年)、紀州藩主徳川頼宣尾張藩主徳川義直寄進建立されたものである文殊 - 入母屋造重層の門。寛永4年1627年建立仁王門貞享2年1688年焼失した後、元禄10年1697年)に建てられたが、上野戦争焼失した黒門 - かつての総門現在の上野公園入口から噴水広場へ至る広い道の途中清水観音堂の下あたりにあったもので、簡素な冠木門であった幕末の上野戦争には焼け残ったが、明治40年1907年)、東京都荒川区円通寺移築され同所現存する彰義隊戦士遺骸円通寺葬られた縁で移築されたもので、門には上野戦争時の弾痕多数残る。なお、現在、清水観音堂近くにある黒門復元されたものである。(既述の旧本坊表門黒門通称されるが別個の門である。) 大仏山パゴダ 上野大仏面部のみ残存弁天堂 時の鐘 黒門東京都荒川区円通寺移築

※この「旧伽藍」の解説は、「寛永寺」の解説の一部です。
「旧伽藍」を含む「寛永寺」の記事については、「寛永寺」の概要を参照ください。

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