佞臣の暗躍
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315年、劉聡は中護軍靳準の娘である靳月光と靳月華が共に殊色があることから、左右の貴嬪に立てた。数カ月、靳月光を皇后に立てた。さらに後、靳月光を上皇后に立て、貴妃劉氏を左皇后に、右貴妃靳氏を右皇后に立てた。陳元達はこの立后について言葉を尽くして諫めたが、劉聡はこれを不快に思い、陳元達を右光禄大夫に任じ、表向きは賢人を優遇することを示しながら、実際にはその権限を奪った。太尉の范隆・大司馬の劉丹・大司空の呼延晏・尚書令の王鑒(中国語版)らが皆上表し、自らの地位を陳元達に譲ってでも、この人事を止めるよう懇願した。これを受けた劉聡は、仕方なく陳元達を御史大夫・儀同三司に任じた。 3月、東宮太師の盧志・東宮太傅の崔瑋・東宮太保の許遐は、皇太弟の劉乂へ謀反を勧めた。だが、劉乂が従わなかったために、その計を取り止めた。東宮舎人の苟裕はこの一件を劉聡へ報告した。劉聡は盧志・崔瑋・許遐を獄に収め、他のことを理由として殺害した。また、冠威将軍の卜抽に東宮を占拠させ、劉乂の朝廷への出入りを禁止した。劉乂は恐れ慄いてなすところを知らず、上表して庶民となることを願い、また晋王劉粲を太子とし、息子たちの領土も全て晋王へ献上すると伝えた。だが、卜抽はその表文を通さなかった。 青州刺史の曹嶷が斉の地一帯を攻略し、その兵が10万余りを数えるようになると石勒は曹嶷が二心を抱いているとして、これを討つことを請うた。劉聡は石勒が斉の地を併呑することを恐れ、これを許さなかった。 8月、劉曜が盟津を渡って河南を攻撃すると、晋の将軍魏該は逃亡した。劉曜は進んで滎陽の李矩を攻め、李矩は将軍李平を成皋に派遣したが劉曜はこれを滅ぼした。李矩は恐れを抱き、人質を送って降伏を請うた。劉曜はその後長安を攻めたが、幾度も晋軍に敗れ、軍を引いて帰還した。劉曜は上党に軍を進めて陽曲を攻めようとすると、劉聡が使者を遣わして劉曜へ「長安がいまだに余命を保っていることは、国家の深く恥じるところである。公は長安を先にして、陽曲は驃騎将軍に任せるように」と述べた。劉曜は軍を転進して郭邁を討つと、劉聡のもとへ帰還した後に蒲坂へ赴いた。 9月、劉聡は大鴻臚を襄国に派遣し、河北に巨大勢力を構える石勒に弓矢を下賜するとともに、陝東伯に任じ、皇帝の代わって軍事を司り、刺史・将軍・郡県長を任命し、列侯を封じる権利を与えた。また、年に一回、朝廷に報告することを命じた。 10月、劉曜は長安攻撃の為に再び軍を進め、粟邑に屯した。晋は麹允を大都督・驃騎将軍に任命して劉曜を防がせた。麹允の軍は餓えが酷く、黄白城を去って霊武に軍を置いた。劉曜が上郡を攻めると、太守張禹と馮翊太守梁粛は允吾に逃走した。関右の地はみな劉曜に応じ、劉曜は軍を進めて黄阜に拠った。 陳元達は上皇后靳月光に淫行の行為があったことを上奏した。劉聡は靳月光を特に寵愛していたが、陳元達の勢を考慮して皇后から廃した。間もなく靳月光は恥じ入って自殺すると、劉聡はその容姿を追思し、陳元達を怨んだ。これ以降、劉聡と靳月光の父である靳準は陳元達と不仲になった。 劉聡の中常侍王沈・宣懐・兪容および中宮僕射郭猗・中黄門陵修らは皆寵遇されていた。劉聡が後宮に籠って宴に明け暮れ、百日に渡って出ない程になると、王沈が朝政を仕切る様になり、群臣はみな王沈の発言をもって劉聡の意とした。このため、功績のある旧臣が賞されず、奸佞の小人が二千石の官に至ることもあった。当時、連年に渡り戦争が続いた上、将士には賞賜がなく、後宮では僮僕にさえ数千万の賞賜が与えられるようになったために、群臣は大いに不満を抱いた。王沈らの車や衣服、また邸宅の豪華さは諸王を超えており、その子弟で庶民から内史や令長となる者が30人余りにおよび、彼らは良民を迫害して財貨を着服した。靳準の一族も彼等に媚びへつらった。 316年1月、郭猗は劉乂に対して怨みがあり、劉粲に向かって、劉乂が大将軍らと共に3月に大宴会を開き、それをきっかけに造反するつもりであると、嘘の発言をした。また、大将軍従事中郎の王皮・衛軍司馬の劉惇もこれに加担し、劉粲へ偽りの進言をしたので、劉粲はそれを信用した。 また、靳準の従妹は劉乂の侍女となったが侍人と密通した為に劉乂は怒ってこれを殺し、このことでしばしば靳準を嘲笑した。靳準は深く慚じ怒った。そして劉粲へ、劉乂を誅殺して劉粲が皇太子になることを勧めた。また、一計を案じて、あえて東宮の禁固を緩めて劉乂が賓客と交流するのを許可し、軽薄な小人が劉乂に近づいて謀反を持ち込むのを待ち、その罪を暴露して劉乂と交流した者を捕えて責め、劉聡にそれを示すべし、と告げた。劉粲はその言葉を信じて卜抽に命じ、兵を率いて東宮を去らせた。 劉聡は315年の冬より朝政に出席しなくなり、軍事・政務に関しては全て劉粲に任せ、刑事の執行と官爵の授与については王沈・郭猗らを通して行わせた。しかし、王沈はほとんど奏上せず、独断で決した。 2月、劉聡は少府の陳休と左衛将軍のト崇を始め、特進の綦毋達・太中大夫の公師彧・尚書の王琰・田歆・大司農の朱誕らをみな誅殺した。彼らは、王沈を始めとした宦官が忌み嫌っていた者達であった。侍中の卜幹は泣いて劉聡を諫め「陛下は今まで賢人を求めて側近に侍らせてきましたが、今、一度に七人もの卿大夫を殺戮なされます。陛下は忠良な者を先に誅して後はどうされるのでしょうか。仮に彼等が有罪だとしても、陛下は裁判という正式な手順を踏まずに処罰なさるのです。天下の人々がどうして靡くでしょうか。それに、詔は臣の職務ですが、今回の件では何の相談にも預かっておりません。昔、秦が三人の臣下を殺したとき、君子は秦の穆公が覇者になれないことを知ったのです。どうか陛下、よくお考え直しくださいませ」と言い、叩頭して流血した。王沈は卜幹を叱責し「卜侍中は詔を拒むというのか」と言った。劉聡はその諫言を聞き入れず、衣を引いて奥へ入ると、卜幹を免官して庶人に落とした。 太宰の劉易・大将軍の劉敷・御史大夫の陳元達・金紫光禄大夫の王延らが参内し「今、王沈らは常伯の位にあって生殺与奪の権を握り、その勢威は海内を傾むかせるほどます。その愛憎によって詔を偽り、内にあっては陛下に諂い。外にあっては相国を佞しております。その威権は人主と変わらず、王公でさえ目を側め、卿宰ですら望塵の拝をとっております。彼らは人の推挙にも影響を及ぼし、実のある選挙が行われることはなくなりました。そのために、士卒は自らを取り上げるために、政治では賄賂が横行するようになり、姦徒が集まり忠善が毒されるようになりました。王琰らは忠臣であり、彼らが忠節を陛下に尽くしていることから、王沈らは自らの姦事が露見することを恐れて極刑に陥れたのです。陛下が賢察を垂れずに誅戮を加えてしまい、怨念は穹蒼に轟き、痛念は九泉に至り、悲嘆は四海に響き、賢愚はともに恐れ慄いております。王沈らはみな刑余の身(宦官の事)であり、背恩忘義の類です。どうして士人や君子のように恩に感じることがあるでしょうか。陛下はなぜこれらを親しく近づけ、任用されているのでしょうか。昔、斉の桓公が易牙を任用した事により乱を招き、蜀漢の孝懐帝(劉禅)が黄皓を任用して滅びを招いたことがありましたが、これらは悪い前例です。ここ数年、地震や日蝕があり、血雨や火災があったのも全て王沈らが原因です。願わくは凶悪の者が刑事に参与する流れを断ち、尚書・御史に朝廷の万事に当たらせ、相国・公卿と五日に一日は政事について議し、大臣にはその言を包み隠さず発言させ、忠臣にはその意を通させますように。今、晋の残党は平定されず、巴蜀の地は従わず、石勒は趙魏の地に割拠する意思をひそかに持ち、曹嶷は全斉の地に王たらんという心を抱いている上に王沈らが大政を乱しております。陛下の心腹四肢で患いがない箇所は有りません。王沈らの官を免じ、有司に付して罪を裁かれますように」と、固く諫めた。 劉聡はこの上表文を王沈らに見せると、笑って「陳元達が言うには、汝(王沈)らは痴れ者だそうだ」と言い、そのまま対応することなく横になった。王沈は頓首して涙を流し「臣らは小人であって陛下の抜擢を受けましたが、王公朝士は臣らを仇のように憎んでおり、また深く陛下を恨んでおります。どうか臣らを廃して廷内の上下の和を結ばれますように」と言った。劉聡は「この文は偽りであり、卿はどうして恨まれることがあるというのか」と答えた。さらに嫡子の劉粲に問うと、劉粲は王沈らが王室に忠誠を尽くしていると盛んに称賛した。劉聡は大いによろこび、王沈らを封じて列侯とした。 劉易が再び上疏して固く諫めると、劉聡は大怒してその上表文を破り、劉易は父の行為に怒りの余りに死去した。陳元達は大いに悲しみ、家に戻ると自殺した。
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