佞臣の暗躍とは? わかりやすく解説

佞臣の暗躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 04:41 UTC 版)

劉聡」の記事における「佞臣の暗躍」の解説

315年劉聡は中護軍靳準の娘である靳月光靳月華が共に殊色があることから、左右の貴嬪に立てた数カ月靳月光皇后立てた。さらに後、靳月光上皇后立て貴妃劉氏左皇后に、右貴妃靳氏を右皇后立てた陳元達はこの立后について言葉を尽くして諫めたが、劉聡はこれを不快に思い陳元達を右光禄大夫任じ表向き賢人優遇することを示しながら、実際にはその権限奪った太尉の范隆・大司馬の劉丹・大司空呼延晏尚書令の王鑒(中国語版)らが皆上表し、自らの地位陳元達譲ってでも、この人事を止めるよう懇願した。これを受けた劉聡は、仕方なく陳元達御史大夫儀同三司任じた3月東宮太師盧志東宮太傅の崔瑋・東宮太保の許遐は、皇太弟劉乂謀反勧めた。だが、劉乂が従わなかったために、その計を取り止めた東宮舎人の苟裕はこの一件劉聡報告した劉聡盧志・崔瑋・許遐を獄に収め、他のことを理由として殺害したまた、冠威将軍の卜抽に東宮占拠させ、劉乂朝廷への出入り禁止した劉乂恐れ慄いてなすところを知らず上表して庶民となることを願い、また晋王劉粲太子とし、息子たち領土全て晋王献上する伝えた。だが、卜抽はその表文通さなかった。 青州刺史曹嶷が斉の地一帯攻略し、その兵が10万余り数えるようになる石勒曹嶷二心抱いているとして、これを討つことを請うた。劉聡石勒が斉の地を併呑することを恐れ、これを許さなかった。 8月劉曜が盟津を渡って河南攻撃すると、晋の将軍魏該逃亡した劉曜進んで滎陽李矩攻め李矩将軍李平を成皋に派遣した劉曜はこれを滅ぼした李矩恐れ抱き人質送って降伏請うた。劉曜その後長安攻めたが、幾度も晋軍に敗れ、軍を引いて帰還した劉曜上党に軍を進めて陽曲攻めようとすると、劉聡使者遣わして劉曜へ「長安いまだに余命保っていることは、国家深く恥じるところである。公は長安先にして、陽曲驃騎将軍任せるように」と述べた劉曜は軍を転進して郭邁を討つと、劉聡のもとへ帰還した後に蒲坂赴いた9月劉聡大鴻臚襄国派遣し河北巨大勢力構え石勒弓矢下賜するとともに、陝東伯に任じ皇帝の代わって軍事司り刺史将軍・郡県長任命し列侯封じる権利与えたまた、年に一回朝廷報告することを命じた10月劉曜長安攻撃為に再び軍を進め粟邑屯した。晋は麹允大都督・驃騎将軍任命して劉曜を防がせた。麹允の軍は餓え酷く黄白城を去って霊武に軍を置いた劉曜上郡攻めると、太守張禹馮翊太守粛は允吾逃走した。関右の地はみな劉曜応じ劉曜は軍を進めて黄阜に拠った。 陳元達上皇后靳月光淫行行為があったことを上奏した。劉聡靳月光を特に寵愛していたが、陳元達の勢を考慮して皇后から廃した間もなく靳月光恥じ入って自殺すると、劉聡はその容姿追思し、陳元達怨んだ。これ以降劉聡靳月光の父である靳準陳元達不仲になった。 劉聡中常侍王沈・宣懐・兪容および中宮僕射郭猗・中黄門陵修らは皆寵遇されていた。劉聡後宮籠って宴に明け暮れ百日渡って出ない程になると、王沈朝政仕切る様になり、群臣はみな王沈発言をもって劉聡の意とした。このため功績のある旧臣賞されず、奸佞小人二千石の官に至ることもあった。当時連年渡り戦争続いた上、将士には賞賜がなく、後宮では僮僕にさえ数千賞賜与えられるようになったために、群臣大いに不満を抱いた王沈らの車や衣服、また邸宅豪華さ諸王超えており、その子弟で庶民から内史や令長となる者が30人余りにおよび、彼らは良民迫害して財貨着服した靳準一族彼等媚びへつらった。 316年1月、郭猗は劉乂に対して怨みがあり、劉粲向かって劉乂大将軍と共に3月に大宴会開き、それをきっかけ造反するつもりであると、嘘の発言をした。また、大将軍従事中郎の王皮・衛軍司馬の劉惇もこれに加担し劉粲偽りの進言をしたので、劉粲はそれを信用したまた、靳準従妹劉乂侍女となった侍人密通した為に劉乂怒ってこれを殺し、このことでしばしば靳準嘲笑した靳準深く慚じ怒った。そして劉粲へ、劉乂誅殺して劉粲皇太子になることを勧めたまた、一計案じて、あえて東宮禁固緩めて劉乂賓客交流するのを許可し軽薄な小人劉乂に近づいて謀反持ち込むのを待ち、その罪を暴露して劉乂交流した者を捕えて責め劉聡にそれを示すべし、と告げた劉粲はその言葉信じて卜抽に命じ、兵を率いて東宮を去らせた。 劉聡315年の冬より朝政出席しなくなり軍事政務に関して全て劉粲任せ刑事執行官爵授与については王沈・郭猗らを通して行わせた。しかし、王沈はほとんど奏上せず、独断決した2月劉聡少府の陳休と左衛将軍のト崇を始め特進の綦毋達・太中大夫の公師彧・尚書の王琰・田歆・大司農誕らをみな誅殺した。彼らは、王沈始めとした宦官忌み嫌っていた者達であった侍中の卜幹は泣いて劉聡諫め陛下今まで賢人求めて側近に侍らせてきましたが、今、一度七人もの卿大夫殺戮なされます陛下忠良な者を先に誅して後はどうされのでしょうか。仮に彼等有罪だとしても、陛下裁判という正式な手順踏まず処罰なさるのです。天下人々がどうして靡くでしょうか。それに、詔は臣の職務ですが、今回の件では何の相談にも預かっておりません。昔、秦が三人臣下殺したとき、君子は秦の穆公覇者なれないことを知ったのです。どうか陛下、よくお考え直しくださいませと言い叩頭し流血した。王沈は卜幹を叱責し「卜侍中は詔を拒むというのか」と言った劉聡はその諫言聞き入れず、衣を引いて奥へ入ると、卜幹を免官して庶人落とした太宰劉易大将軍の劉敷・御史大夫陳元達金紫光禄大夫王延らが参内し「今、王沈らは常伯の位にあって生殺与奪の権握り、その勢威海内を傾むかせるほどます。その愛憎によって詔を偽り、内にあっては陛下諂い。外にあっては相国佞しおります。その威権人主変わらず王公でさえ目を側め、卿宰ですら望塵の拝をとっております。彼らは人の推挙にも影響及ぼし実のある選挙が行われることはななりました。そのために、士卒は自らを取り上げるために、政治では賄賂横行するようになり、姦徒集まり忠善が毒されるようになりました。王琰らは忠臣であり、彼らが忠節陛下尽くしていることから、王沈らは自らの姦事が露見することを恐れて極刑に陥れたのです。陛下賢察垂れずに誅戮加えてしまい、怨念穹蒼轟き、痛念は九泉至り悲嘆四海響き賢愚はともに恐れ慄いております王沈らはみな刑余の身(宦官の事)であり、背恩忘義の類です。どうして士人君子のように恩に感じことがあるでしょうか陛下はなぜこれらを親しく近づけ、任用されているのでしょうか。昔、斉の桓公易牙任用した事により乱を招き蜀漢の孝懐帝劉禅)が黄皓任用して滅び招いたことがありましたが、これらは悪い前例です。ここ数年地震日蝕があり、血火災があったのも全て王沈らが原因です。願わくは凶悪の者が刑事参与する流れ断ち尚書御史朝廷万事に当たらせ、相国公卿五日一日政事について議し大臣にはその言を包み隠さず発言させ、忠臣にはその意を通させますように。今、晋の残党平定されず、巴蜀の地は従わず石勒は趙魏の地に割拠する意思ひそかに持ち曹嶷は全斉の地に王たらんという心を抱いている上に王沈らが大政乱しております陛下心腹四肢患いがない箇所有りません。王沈らの官を免じ有司付して罪を裁かれますように」と、固く諫めた劉聡この上表文王沈らに見せると、笑って陳元達が言うには、汝(王沈)らは痴れ者だそうだと言いそのまま対応することなくになった王沈頓首して涙を流し「臣らは小人であって陛下抜擢受けましたが、王公朝士は臣らを仇のように憎んでおり、また深く陛下恨んでおります。どうか臣らを廃して廷内の上下の和を結ばれますように」と言った劉聡は「この文は偽りであり、卿はどうして恨まれることがあるというのか」と答えた。さらに嫡子劉粲に問うと、劉粲王沈らが王室忠誠尽くしていると盛んに称賛した劉聡大いよろこび王沈らを封じて列侯とした。 劉易が再び上疏して固く諫めると、劉聡は大怒してその上表文破り劉易は父の行為怒り余りに死去した陳元達大い悲しみ、家に戻ると自殺した

※この「佞臣の暗躍」の解説は、「劉聡」の解説の一部です。
「佞臣の暗躍」を含む「劉聡」の記事については、「劉聡」の概要を参照ください。

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