京王電気軌道・玉南電気鉄道
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「京王電鉄」の記事における「京王電気軌道・玉南電気鉄道」の解説
現在の京王電鉄の歴史は、1905年(明治38年)12月12日に、日本電気鉄道株式会社が関係官庁に電気鉄道敷設を出願したことにまで遡る。この時出願した路線は、官設鉄道蒲田駅から調布町、府中町を経て甲武鉄道立川駅に至る路線と、府中で分岐して内籐新宿に至る路線の二つであった。 日本電気鉄道は1906年(明治39年)8月18日、武蔵電気軌道株式会社と改称し、新たに立川村内と府中 - 国分寺間の路線を出願するとともに既に出願していた鉄道路線計画を変更し、蒲田 - 立川間の調布以北と府中 - 新宿間を合体させ残る蒲田 - 調布間を国領で分岐して蒲田に至る路線として分離した。この時の経路が現在の京王線の基となっている。 その後、別に武蔵電気鉄道株式会社という会社が現れたため、1910年(明治43年)4月12日に、武蔵電気軌道が京王電気軌道株式会社と改称し、9月21日に資本金125万円で設立され、鬼怒川水力電気取締役の川田鷹が取締役会長に、初代専務取締役(社長)に鬼怒川水力電気社長利光鶴松(小田急電鉄や帝都電鉄の創業者)の親族である利光丈平が就任した。しかし、まだ鉄道路線は有していないため、当初の営業は1911年(明治44年)7月4日に関係官庁より許可が出た電気供給事業のみ執り行っており、1912年(明治45年)8月から調布町・多磨村・府中町・西府村に電気供給を行っていた。 そして、1913年(大正2年)4月8日に、玉川電鉄と東京電燈から買った電力を笹塚変電所 (100kW) で受けて、4月15日に笹塚駅 - 調布駅間の12.2キロの電車営業と、電車の補助機関として新宿駅 - 笹塚駅間及び調布駅 - 国分寺駅間の乗合自動車営業(路線バス事業)を開始した。しかし、京王線の建設資金に窮し、森村財閥の融資系列に入り、富士瓦斯紡績の井上篤太郎(第3代専務)、藤井諸照(会長)が経営陣に参画することになる。その後は1914年(大正3年)11月19日の京王線の新町駅(現存せず) - 笹塚駅間の延伸を皮切りに、1915年(大正4年)5月30日には新宿追分駅(新宿3丁目付近にある追分交差点にあった駅 現・京王新宿三丁目ビルの位置) - 新町駅間が、1916年(大正5年)6月1日には調布駅 - 多摩川原駅(現・京王多摩川駅)間が、10月31日には調布駅 - 府中駅間が延伸開業した。また、1923年(大正12年)5月1日には新宿駅 - 府中駅間の全線複線化も行っている。このほか、1919年(大正8年)4月には多摩川原駅前での造園事業も行った。 また、電車運転の余力の売電も行い、1914年(大正3年)10月から国分寺村に、1915年(大正4年)8月から谷保村・立川村に、同年10月から小平村・田無村に、同年11月から保谷村に、1916年(大正5年)1月から拝島村に、同年2月から中神村他七カ村連合に、同年7月から神代村・和田堀内村・千歳村・高井戸村・松沢村に、1917年(大正6年)3月から三鷹村に、同年8月から砧村に、1919年(大正8年)4月から稲城村に供給した。1922年(大正11年)12月に東京電燈の立川変電所から500 kW の受電を開始し、1923年(大正12年)3月から狛江村への電気供給を開始した。 一方、府中駅 - 東八王子駅(現・京王八王子駅)間は、1922年(大正11年)に設立された京王の関連会社である玉南電気鉄道株式会社によって1925年(大正14年)3月24日に営業を開始した。これは国からの補助金を得るため、府中駅 - 東八王子駅間を軌道法に基づく京王電気軌道ではなく、新たに設立した地方鉄道法に基づく新会社(玉南電気鉄道株式会社)により敷設を行ったものである。しかしながら免許路線が官営の中央本線に並行していることを理由に、京王・玉南が当てにしていた補助金は認められなかった。 その後、1926年(大正15年)12月1日に京王電気軌道が玉南電気鉄道を合併し、資本金1290万円の会社となる。1927年(昭和2年)6月1日に玉南鉄道線(府中駅 - 東八王子駅間)を1,067 mm から1,372 mm へ改軌する工事が終了し、全線軌道法による直通運転を開始した。しかし、新宿駅から東八王子駅まで乗り換えなしでは行けない状況は1928年(昭和3年)5月22日のダイヤ改定まで続いた。 1931年(昭和6年)3月20日には、初の支線である御陵線(北野駅 - 御陵前駅間)が開通し、1932年(昭和7年)4月の高尾登山鉄道との連帯運輸の開始を皮切りに、帝都電鉄、省線電車などとも連帯運輸を行うこととなる。また、御陵線のライバル路線であった武蔵中央電気鉄道の軌道線も1938年(昭和13年)6月1日に買収し、一旦「京王電気軌道八王子線」(後に高尾線)としていたが、翌1939年(昭和14年)6月30日をもって休止、同年廃線にしている。 後の1937年(昭和12年)2月に資本系列が森村財閥から大日本電力に移り同社専務の穴水熊雄が社長に就任、沿線の乗客誘致政策が積極化することとなる。具体的には駅名の改称であり、例を挙げるならば、京王車庫前駅 → 桜上水駅、上高井戸駅 → 芦花公園駅、多磨駅 → 多磨霊園駅、関戸駅 → 聖蹟桜ヶ丘駅、百草駅 → 百草園駅、高幡駅 → 高幡不動駅、多摩川原駅 → 京王多摩川駅など観光地であることを強調する駅名にしている。これらの駅名は、観光地駅としての地位についてはともかく、現在まで引き継がれ親しまれており、一定の先見の明があった施策といえる。 また、乗合自動車事業は1938年(昭和13年)3月の武蔵中央電気鉄道のバス事業(八王子市街地で運行)買収を皮切りに、高幡乗合自動車株式会社(高幡不動駅 - 立川駅間で運行)と由木乗合自動車株式会社(八王子駅 - 由木(現在の京王堀之内駅・南大沢駅周辺の地域名称) - 相模原駅間で運行)の買収を行っている。 他にも、新事業として1938年(昭和13年)11月に不動産事業を開始した。 しかし、第二次世界大戦の勃発で、1942年(昭和17年)前半には、陸上交通事業調整法に基づき、東京市内のバス路線を東京都へ譲渡したほか、配電統制令により電力供給事業を関東配電株式会社(東京電力の前身)に譲渡することとなり、経営に大打撃を被る。そして、1944年(昭和19年)5月31日には陸上交通事業調整法に基づき東京西南地区の私鉄は1つに統合されることとなり、大株主であった大日本電力は、長年京王電気軌道と競合関係にあった東京急行電鉄へ株式を譲渡することとなり、いわゆる大東急の一員となる。京王は東急に吸収合併され、京王電気軌道は法人としては解散・消滅した。この合併で、会長の井上篤太郎は東急相談役に、井上の片腕であった取締役の後藤正策(後に京王帝都電鉄取締役)と、社長の穴水熊雄の次男穴水清彦(後に相模鉄道社長・会長)は、東急取締役に就任した。
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