帝都電鉄とは? わかりやすく解説

東京山手急行電鉄

(帝都電鉄 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/07 23:36 UTC 版)

東京山手急行電鉄
種類 株式会社
本社所在地 日本
東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町[1]
設立 1928年昭和3年)9月[1]
業種 鉄軌道業
代表者 社長 利光鶴松[1]
資本金 3,400,000円(払込高)[1]
特記事項:上記データは1930年(昭和5年)現在[1]
テンプレートを表示

東京山手急行電鉄(とうきょうやまのてきゅうこうでんてつ)は、かつて東京外周に約50 kmに渡る環状路線を建設しようとした鉄道事業者世界恐慌の影響で計画は頓挫した。

後に帝都電鉄と改称して現在の京王井の頭線を建設し、1940年昭和15年)に小田原急行鉄道吸収合併された。

概要

東京では1925年大正14年)に山手線環状運転が開始されていたが、沿線のさらなる発展を見込み、私鉄によってその外周にもう一つの環状路線を形成することが考え出された。当時の鉄道省文書(帝都電鉄の綴)にも東京郊外の環状線計画について検討が行われた記録が残されている。

1926年(大正15年)9月に免許申請がなされた。しかし、鉄道省での審議は反対派[注釈 1]擁護派双方譲らず結論が出なかった。この騒ぎに井上匡四郎鉄道大臣が仲裁に入り調査会を開くことになった。その矢先第1次若槻内閣総辞職という事態が発生した。このため井上大臣は1927年昭和2年)4月19日に省議を開き、東京山手急行電鉄に対する免許交付を指示し、懸案事項の解決をみることになった[2][3][4]。ところが当時は昭和金融恐慌が起こるなど不景気であったため、発起人[注釈 2][注釈 3]にはこれだけの新線を建設するだけの資金は存在しなかった。また、ほぼ全線を掘割での建設を予定するなど建設費が割高であったことや、交差する各線(他の鉄道事業者)との協議をせねばならないなど、明らかに杜撰な計画であった[注釈 4]。なお、掘割にしたのは発生する残土で沿線の湿地を埋め立てて住宅地として分譲する計画があったからで、実際に住宅開発を行うための「東京山手急行証券」という子会社も設立されている[注釈 5]

そのため、鬼怒川水力電気総帥であり小田原急行鉄道(現、小田急電鉄の前身)を経営していた利光鶴松の傘下に入り、増資を行って建設の機会を待つことにした。

それと同じ頃の1928年(昭和3年)に、現在の京王井の頭線に当たる渋谷駅 - 吉祥寺駅間の免許[5]城西電気鉄道[6](後に渋谷急行電鉄と改称[7])という会社が得ていたが、こちらも建設の資金はなく、同じように利光の傘下になった。

利光は、1931年(昭和6年)に東京山手急行電鉄を改称した[8]東京郊外鉄道に渋谷急行電鉄を合併させたが[8]、当時は小田原急行鉄道も現在の小田原線を1927年(昭和2年)に開業させたばかりで、さらに乗客数が伸びず苦心していた頃でもあり、東京郊外鉄道の環状線を建設するだけの余力はなかった。

そのため、比較的建設が容易とみられた渋谷急行電鉄の免許線の方を先に開業させることにし、1933年(昭和8年)に社名を帝都電鉄[9]へと改称し、同年から翌1934年(昭和9年)にかけて順次開業させた。

東京山手急行電鉄が保有していた免許線の建設もあきらめたわけではなく、1936年(昭和11年)には東京東部に当たる区間の免許を失効[10]させて終点を山手線駒込駅に変更し、大井町駅 - 駒込駅間の施行免許を得た。だが日中戦争1937年(昭和12年)に勃発して次第に戦時体制となる中、山東半島における鉱開発に失敗したこと、日本発送電の発足に伴い鬼怒川水力電気の電力事業を失ったこともあり、利光の事業環境は一層苦しくなっていった。これにより東京山手急行電鉄免許線の建設は到底無理となったため、帝都電鉄が小田急に統合された1940年(昭和15年)に、1932年(昭和7年)施行許可[11]を得た残り区間の免許も失効した[12]

1942年(昭和17年)に陸上交通事業調整法に基づいて東京都南西部の私鉄が東京急行電鉄、いわゆる「大東急」に統合された際、旧帝都電鉄の路線は「井の頭線」という名称になった。1948年(昭和23年)に大東急が解体された際、経営的な判断から旧京王電気軌道の路線と組み合わされて、「京王帝都電鉄」として分離され、社名に旧帝都電鉄の名残をとどめていたが、1998年(平成10年)に社名を「京王電鉄」に変更した。

ルート

京浜線東海道本線)の大井町駅を起点とし、池上電気鉄道線雪ヶ谷駅東京横浜電鉄東横線自由ヶ丘駅玉川電気鉄道線の弦巻駅、小田急線梅ヶ丘駅、計画中の渋谷急行電鉄と京王電気軌道線が交差する松原駅(渋谷急行電鉄側は西松原駅として開業、双方とも免許下付期間中に明大前駅に改称)、中央本線中野駅西武鉄道村山線沼袋駅武蔵野鉄道武蔵野線江古田駅東武東上本線下板橋駅山手線支線板橋駅山手線東北本線田端駅常磐線東武伊勢崎線北千住駅付近を経て、寺島町・大島町砂町を経由し洲崎町に至る予定であった。

また1925年(大正14年)に東京特別都市計画[注釈 6]高速鉄道網として、東京地下鉄道が計画していた現在の銀座線新橋駅以北のほかに、東京市1943年〈昭和18年〉に東京府との合同で東京都となる)が4本の路線を建設する計画を立てており、その中に5号線として池袋 - 一ツ橋 - 永楽町[注釈 7]東京駅) - 中橋広小路 - 永代橋 - 洲崎間という路線が存在したが、東京山手急行電鉄ではこの路線との直通運転も計画していたといわれる。

1936年(昭和11年)には、前述のように終点を駒込駅に変更し、以東の区間を放棄した。

井の頭線が京王線玉川上水の下をくぐる明大前駅付近の構造物複々線分の用地があるが、これは現在の井の頭線に加えて東京山手急行電鉄免許線が通ることを考慮したためといわれる[13]

想定されていた駅

(「東京山手急行電鐵 株式募集」の冊子に掲載されていたダイヤグラム及び地図[14][15]より)

大井町駅 - 鹿島谷駅 - 大井原駅[注釈 8] - 大仏駅[注釈 9] - 小池駅 - 山谷駅 - 日下山駅[注釈 10] - 沖之谷駅[注釈 11] - 碑衾駅[注釈 12] - 深沢駅 - 駒沢駅[注釈 13] - 弦巻駅 - 下町駅[注釈 14] - 国士舘駅 - 松原駅[注釈 15] - 羽根木駅 - 松沢駅[注釈 16] - 和泉駅 - 和田堀駅 - 妙法寺前駅 - 天神前駅 - 中野駅 - 新井薬師前駅[注釈 17] - 大下駅[注釈 18] - 江古田駅 - 小竹駅[注釈 19] - 大谷口駅 - 上板橋駅[注釈 20] - 中宿駅 - 下板橋駅[注釈 21] - 鴻之台駅[注釈 22] - 御代之台駅 - 瀧ノ川駅[注釈 23] - 染井駅 - 駒込駅

大東京鉄道

なお鶴見 - 等々力 - 経堂 - 桜上水 - 西永福 - 荻窪 - 練馬 - 東武練馬 - 川口 - 竹ノ塚 - 金町間に、東京山手急行電鉄の外側にさらに大きな環状線を形成する「大東京鉄道[16][17]の計画もあったが、こちらも1936年(昭和11年)頃に免許失効となった。

大東京鉄道は金町電気鉄道出自のこの環状線計画のほかに、環状線の浮間から分岐して笹目を経て大宮へ向かう路線の計画も持っていた。更に、北武電気鉄道[18]から譲渡された[19]京北線 日暮里 - 尾久 - 町屋 - 荒川放水路 - 大師前 - 伊興 - 舎人 - 南新郷 - 安行[注釈 24] - 出羽村 - 越ヶ谷[注釈 25] - 野田町[20][17]東京大宮電気鉄道から譲渡された[21]大宮氷川公園 - 与野 - 浦和 - - 笹目 - 志村 - 板橋 - 巣鴨間などの計画も持っていた。

脚注

注釈

  1. ^ 工務局長の後藤佐彦(後の南海鉄道取締役技師長、江若鉄道社長)は沿線の人口は希薄であり到底採算が取れないとした『私鉄物語』167 - 168頁
  2. ^ 発起人総代は三十四銀行の常務取締役兼東京支店長だった太田一平『日本全国諸会社役員録. 第32回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  3. ^ 主な発起人と役職早川徳次、利光鶴松(社長)、太田光凞(監査役)、渡辺嘉一(取締役)、金森又一郎若尾璋八『日本全国諸会社役員録. 第38回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  4. ^ 例えば計画当時には西部地域だと現在の東急大井町線東急世田谷線、東部地域だと東武伊勢崎線東武亀戸線が既に存在しており、1933年(昭和8年)には京成本線が開業する。
  5. ^ 東京山手興業に改称『日本全国諸会社役員録. 第38回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  6. ^ 大正12年公布、昭和16年廃止の特別都市計画法
  7. ^ 東京市麹町区の旧地名。現在の東京都千代田区丸の内大手町の一部にあたる。
  8. ^ 現在の西大井駅の至近の位置。
  9. ^ 現在の馬込駅の至近の位置。
  10. ^ 現在の雪が谷大塚駅にほぼ隣接する位置。
  11. ^ 現在の奥沢駅の至近の位置。
  12. ^ 現在の自由が丘駅の至近の位置。
  13. ^ かつて東急玉川線の新町停留場があった辺り、現在の新町一丁目交差点にほぼ隣接する位置。
  14. ^ 現在の松陰神社前駅にほぼ隣接する位置。
  15. ^ 現在の梅ヶ丘駅にほぼ隣接する位置。
  16. ^ 現在の明大前駅にほぼ隣接する位置。
  17. ^ 現在の新井薬師前駅とは別位置。
  18. ^ 現在の沼袋駅にほぼ隣接する位置。
  19. ^ 現在の小竹向原駅がある辺りの位置。
  20. ^ 現在の上板橋駅とは別位置。現在の東武東上線大山駅 - 中板橋駅間の線路に近い位置。
  21. ^ 現在の下板橋駅とは別位置。
  22. ^ 現在の新板橋駅の至近の位置。
  23. ^ 現在の西ヶ原四丁目停留場にほぼ隣接する位置。
  24. ^ 現・川口市安行
  25. ^ 1919年(大正8年)開業の二代目「越谷駅」。

出典

  1. ^ a b c d e 上編之部 東京府」『日本全国諸会社役員録 第38回』商業興信所、1930年、上編116頁。doi:10.11501/1023122https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1023122/125 
  2. ^ 雜報 内閣投出し間際に許可された郊外電車」『交通と電気』 6巻、7号、電通社、1927年7月、51頁。doi:10.11501/1505835https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1505835/38 
  3. ^ 彙報 鐵道免許狀下付 東京山手急行電鐵株式會社外一(鐵道省)」『官報』94号(1927年04月25日)、大蔵省印刷局、1927年4月25日、672頁。doi:10.11501/2956554https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2956554/8 
  4. ^ 清水啓次郎「四十一 一切法界流轉の跡」『私鉄物語』春秋社、1930年、165-168頁。doi:10.11501/1258919https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1023122/125 
  5. ^ 1月30日免許「鉄道免許状下付」『官報』1928年2月1日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  6. ^ 『日本全国諸会社役員録. 第37回(昭和4年)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  7. ^ 『鉄道統計資料. 昭和2年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  8. ^ a b 『鉄道統計資料. 昭和5年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  9. ^ 『鉄道統計資料. 昭和7年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  10. ^ 1月23日免許失効(豊島区駒込3丁目-深川区西平井町間 指定ノ期限マテニ工事施工ノ認可申請ヲ為ササルタメ)「鉄道一部免許失効」『官報』1936年1月23日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  11. ^ 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和12年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  12. ^ 「鉄道起業廃止」『官報』1940年4月27日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  13. ^ 『日本の私鉄109』山と溪谷社、1992年、48頁。 
  14. ^ 内田宗治『地形と歴史で読み解く鉄道と街道の深い関係 東京周辺』実業之出版社。 
  15. ^ 東京人』、都市出版、2021年9月、66-67頁。  それぞれに地図と共に掲載。
  16. ^ 東京府 大東京鉄道株式会社」『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道 昭和10年4月1日現在』鉄道同志会、1935年、49頁。doi:10.11501/1190630https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190630/35 
  17. ^ a b 第五章 各種交通機關ノ連絡狀況 第二節 東京市並隣接五郡内鐵道及軌道營業粁程竝其未開線」『大東京ニ於ケル交通ニ關スル調査 (都市計畫調査資料 ; 第1編)』東京市、1932年、163-164頁。doi:10.11501/1904104https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1904104/105 
  18. ^ 彙報 鐵道免許狀下付 志摩電氣鐵道株式會社外二(鐵道省)」『官報』436号(1928年06月12日)、大蔵省印刷局、1928年6月12日、297頁。doi:10.11501/2956897https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2956897/7 北武電気鉄道株式会社 東京府北豊島群日暮里町~千葉県東葛飾郡野田町 約18キロ
  19. ^ 東京府 大東京鉄道株式会社」『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道 昭和10年4月1日現在』鉄道同志会、1935年、49頁。doi:10.11501/1190630https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190630/35 "昭和7年2月15日 北武電気鉄道譲渡実施"とある
  20. ^ 第三編 交通・運輸 第一章 鉄道 第三節 鉄道敷設計画 1.大東京鉄道」『川口市史 近代資料編 1』川口市、1983年11月、895-897頁。doi:10.11501/9643036https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9643036/482 
  21. ^ 東京府 大東京鉄道株式会社」『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道 昭和10年4月1日現在』鉄道同志会、1935年、49頁。doi:10.11501/1190630https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190630/35 "昭和5年10月16日 東京大宮電気鉄道譲渡実施"とある

参考文献

関連項目

外部リンク


帝都電鉄(小田原急行鉄道時代も含む)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 16:31 UTC 版)

京王電鉄」の記事における「帝都電鉄(小田原急行鉄道時代も含む)」の解説

一方井の頭線は、鬼怒川水力電気系列の帝都電鉄株式会社同社渋谷線として1933年昭和8年8月1日渋谷駅 - 井の頭公園駅間を開業させ、1934年昭和9年4月1日吉祥寺駅まで全通させたものである。 元々、同社1928年昭和3年9月24日設立され鬼怒川水力電気系列東京山手急行電鉄株式会社そもそもの母体である。1930年昭和5年11月15日東京郊外鉄道株式会社社名変更して1931年昭和6年2月1日には1927年昭和2年7月設立されていた渋谷急行電気鉄道株式会社合併し同社計画中の渋谷線継承した。そして、1933年昭和8年1月19日に帝都電鉄株式会社改称した理由1932年昭和7年10月1日沿線町村のほとんどが東京市合併されたことにより、「郊外」の社名ふさわしくなくなったからとされている。 また、同社1935年昭和10年)には乗合自動車事業開始したが、1940年昭和15年5月1日付けで同じ鬼怒川水力電気系列小田原急行鉄道株式会社合併され小田原急行鉄道帝都線となる。さらに1941年昭和16年3月1日には親会社である鬼怒川水力電気小田原急行鉄道合併し小田急電鉄株式会社改称小田急電鉄帝都線となる。そして1942年昭和17年5月1日には陸上交通事業調整法趣旨則り小田急電鉄株式会社京浜電気鉄道株式会社と共に東京横浜電鉄株式会社合併し東京急行電鉄株式会社いわゆる大東急)の一員となり、小田急電鉄帝都線は、東急井の頭線改称される。 なお、大東急になる前の小田急電鉄は、主軸電力部門電力国家管理政策に基づき国家取り上げられた上、中華民国山東半島への鉱業進出裏目に出て経営悪化し先行き暗かった加えて経営者である利光鶴松高齢理由に、小田急経営一切自分見込んだ東京横浜電鉄五島慶太託して引退事実上同社身売りした。当然この背後には陸上交通事業調整法に基づく戦時交通統制があるが、小田急電鉄場合京王電気軌道異なり、あくまで自主的に統合加わったであった

※この「帝都電鉄(小田原急行鉄道時代も含む)」の解説は、「京王電鉄」の解説の一部です。
「帝都電鉄(小田原急行鉄道時代も含む)」を含む「京王電鉄」の記事については、「京王電鉄」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「帝都電鉄」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「帝都電鉄」の関連用語

帝都電鉄のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



帝都電鉄のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの東京山手急行電鉄 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの京王電鉄 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS