帝都陥落と荒廃(12世紀~13世紀)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 21:18 UTC 版)
「コンスタンティノープル」の記事における「帝都陥落と荒廃(12世紀~13世紀)」の解説
11世紀以降、イタリアの都市国家が東地中海に勢力を伸ばしてきた。特にヴェネツィア共和国は東ローマ帝国と徐々に対立を深め、1204年の第4回十字軍を教唆してコンスタンティノープルを海側から攻撃させた。海側の城壁は高さも低く、コンスタンティノープルの弱点だった。4月13日、コンスタンティノープルは陥落し、十字軍兵士による暴行・虐殺・掠奪が行われた。 十字軍はコンスタンティノープルを首都としてラテン帝国を建てたが、存立基盤が弱く、ヴェネツィアの海軍力・経済力に依存していた。このためコンスタンティノープルにあった美術品や宝物は、食糧代などとしてほとんどヴェネツィアに持ち去られ、壮麗さを誇った宮殿・教会といった建造物も廃墟と化していった。1261年7月に東ローマの亡命政権ニカイア帝国は、たまたま守備兵が不在だったのを突いて、コンスタンティノープルを攻撃、奪回した。これによって東ローマ帝国は再興されたが、国力は以前に比べて格段に弱くなっており、帝都の大半は荒れるに任された。人口も4万~7万人に減少し、貿易もヴェネツィアやジェノヴァといったイタリアの都市に握られてしまい、都に富をもたらすことはなかった。
※この「帝都陥落と荒廃(12世紀~13世紀)」の解説は、「コンスタンティノープル」の解説の一部です。
「帝都陥落と荒廃(12世紀~13世紀)」を含む「コンスタンティノープル」の記事については、「コンスタンティノープル」の概要を参照ください。
- 帝都陥落と荒廃のページへのリンク