中国での数学の発展
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中国では古代から算籌(さんちゅう)と呼ばれる小さな木っ端や竹などを用いた計算が行われていた。「算」の字は、算籌を表す「竹」と、揃えるという意の「具」の会意であるといわれる。この計算方法では、算籌によって表した一から九までの基数を位取り式に並べることで様々に数を表した。これを用いて、加減乗除から求根、方程式を解くに至るまで様々な算術が扱われ、中国数学はこの計算術の下で発展した。 紀元前212年に、秦の始皇帝が秦国外の書物をすべて燃やすことを命じた。この命令が完全に遂行されることはなかったが、結果として古代中国数学に関しては僅かしか知られていない。周(紀元前1046年〜)以降、焚書を免れた最古の数学書は『易経』であり、哲学、数学、および神秘的目的で、8種3組(三重)および64種6組(六重)が使用される。各組は分割した、または切れ目の無い直線で構成され、それぞれ陰「女性」陽「男性」と呼ばれる。(六十四卦参照) 中国の幾何学の現存する最も古い書物は、紀元前330年頃の墨家の哲学原理で、墨子(紀元前470〜390年)の後継者により編纂された。『墨経』は、物理化学に関する様々な分野を記述し、数学について僅かながら書き示した。 焚書の後、漢(紀元前202年〜西暦220年)は、現在失われた書物を拡張したと推定される数学書を生み出した。最も重要な書物は『九章算術』であり、全編が完成したのは遅くとも西暦179年だとされている。しかし、一部は別の書名の下にそれ以前から存在した。この数学書は、その名の通り九つ、すなわち方田・粟米・衰分・少広・商功・均輸・盈不足・方程・勾股の章に分けて、農業、商業、幾何学、工学、測量に関する246語の問題で構成され、特別な直角三角形および円周率の要素を含んでいる。また、体積におけるカバリエリの定理を、西洋でカバリエリが提案する1,000年以上前に使用していた。ピタゴラスのピタゴラスの定理の数学的証明、およびガウスの消去法の数式も含まれている。方程(連立方程式のこと)の章では、益の数・損の数を表す正算・負算という赤と黒の算籌の区別を用いて連立方程式を解き、正負計算の法則までも述べている。この書は中国や朝鮮では長い時期にわたって重要な数学の教科書の一つとして扱われた。この書の研究としては西暦3世紀に劉徽による論評と問題や解法の数学的考察が行われた。 さらに、漢の天文学者、発明家である張衡(西暦78〜139年)の数学書には円周率の公式化があり、劉徽の計算と異なっていた。張衡は、球体の体積を求めるために円周率の公式を使用した。また、数学者で音楽理論家の京房(紀元前78〜37年)は、ピタゴラスコンマを用いて53の完全五度が31オクターヴにほぼ等しいことを述べた。これは後に、ドイツのニコラス・メルカトルが17世紀に53平均律を発見するまで、正確に計算されることはなかった。 南北朝時代の祖沖之(5世紀)は、円周率の値を小数点以下第7位まで計算した。これは以後1,000年間、最も正確な値であった。 漢に続く唐の開始と宋の終わりまでの約1,000年間、ヨーロッパの数学が存在しない時代に、中国数学は繁栄した。官僚登用試験である科挙においても数学は科目に含まれ、初期中国の主な数学業績を集めた『算経十書』が教科書として推奨された。 中国で最初に開発され、後に西洋で多く知られるものに、負の数、二項定理、線型方程式を解決するための行列手法、および中国の剰余定理がある。中国ではまた、ヨーロッパで知られる前に、パスカルの三角形、帰一算が開発された。この時代大いに発展した算法に天元術がある。これは算籌を用いた代数問題の解法であって、問題に与えられた条件から計算を施して、等式から一元数次方程式を作る算法である。朱世傑はこれを四つの未知数まで拡張させて高次の四元連立方程式の解法、四元術を創った。また、方程式自体を解くために、天元術とともに、一般次数における方程式の近似解法の開方術(いわゆるホーナーの近似解法)が発展した。この天元術を主とした中国の算法は江戸時代の日本に伝わり、和算の発展の大きな要因となった。祖沖之や朱世傑の他に、唐や宋の時代の重要な人物として、一行、沈括、賈憲、秦九韶、李冶達がいる。科学者の沈括は、微分積分学、三角法、度量衡学 (Metrology) 、順列に関する問題を使用して、特定の戦闘陣形が使用できる地勢の空間や、兵糧の量に対して継続可能な軍事作戦の期間を計算した。 中国ではまた、魔方陣として知られる複雑な結合図表が古くから述べられ、楊輝 (Yang Hui) (西暦1238〜1298年)によって完成された。 その後17世紀初年においては、中国に資本主義がめばえ、商業算術が発展してそろばんを用いた珠算が普及し、初等的な実用数学が重要視された。よって高度な数学の研究は大きく減少し、くわえて丁度この時に、マテオ・リッチ(Matteo Ricci, 利瑪竇)ら宣教師たちにより西洋数学が伝来し、中国数学は西洋科学ととって替わられ、衰退の一途を行くこととなった。 古代中国の数学の方法がインドに伝えられたという直接の記録はないものの、インド数学におけるいくつかの方法は古代中国のそれに類似しており、何らかの伝播があったことを示唆している。6世紀頃におけるインド数学における位取り記数法の導入に影響を与えているとの見方を示している。そのほかにインド数学における分数の記法や比例問題の解法などの算法、円周率の表示 3927/1250 などに中国の数学との類似や一致が見られる。インドを通じたイスラム圏への中国数学の伝播の他に、元の西進による中国の暦法がイスラム圏に伝えられた。さらに、アル・カーシーによる「算術の鍵」(1427年)の中で行われている算法のいくつかは宋・元時代に中国で発展させられたものと一致している。とはいえ、ヨーロッパの数学がルネサンスの間に栄えた後でさえ、重要な中国数学の成果は衰退する中、ヨーロッパと中国の数学は総じて別個の流儀であった。後にマテオ・リッチのようなイエズス会宣教師が16世紀から18世紀にかけて2つの文化の間で数学思想を交流させた。
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