中国での歴史
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火薬、およびその燃焼ガス圧により物体を投射する火器ならびにロケットの概念も中国圏で発明されたものだが、その後の科学技術発展は停滞し、逆に西洋側からの知見や現物の輸入に頼るようになった。中国における西洋式大砲の輸入は15世紀初め、明の成祖の交趾征伐時であり、ポルトガルから輸入した「紅夷砲」が後金に対して使用された。明では「神機砲」と呼び、「神機営」という砲兵隊が設けられたが、主に爆音で相手を驚かせる用途で、あまり改良はされなかった。その後、1621年にポルトガル宣教師を火砲に従軍させたり、ドイツ宣教師が砲術を伝えたが、中国人は製造・砲術の基礎となる自然科学精神の理解が乏しかったため、火砲を中心とした近代攻城戦・野戦の戦術を採用する姿勢がなく、製造した大砲に「安国全軍平遼靖膚将軍」の号を与え、あつく祭祀する有り様だった。
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中国での歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 22:36 UTC 版)
原則漢民族であり、そのルーツを辿ると華夏族も含む古代中国(周から春秋戦国時代)の中原や中国東北部の王族の末裔であることが多い。 歴史上、戦乱から逃れるため中原から南へと移動、定住を繰り返していった。移住先では先住者から見て“よそ者”であるため、客家と呼ばれ、先住者との軋轢も多かった。この争いを土客械闘という。 中国内の移動・定着の歴史は、およそ6段階に分類され、最初が秦の時代辺りから江西地帯への入植、第2段階が西晋の八王の乱から永嘉の乱にかけて黄河流域の中原や華北の北方住人が長江以南に避難。第3段階が唐末の黄巣の乱に江西、福建、広東の奥地に南下。第4段階として南宋末期の元軍の侵攻により広東に拡がり、第5段階では、清の時代の領土拡大に伴い、西は四川省、東は台湾に展開、そして最後の段階として、海南島まで南下した。ほとんどの家に古代からの族譜があり、祖先信仰が強く、風習も頑なに守ってきたため、周囲から隔絶されて発達した客家語には古代の文語がうずもれるように残っている部分があるといわれている。 香港は、香港島、九龍半島、新界の3つに分かれ、そのうち中国大陸に近い新界を中心に居住している。 主な居住地域は、中国広東省・福建省・江西省など山間部であり、梅州、恵州、汀州、贛州は客家四州と呼ばれる。在外華僑・華人としてタイ、マレーシア、シンガポールなどの東南アジア諸国に暮らす者も多く、華人の3分の1は客家人である。
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