古代中国の数学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 15:34 UTC 版)
甲骨文字の単純な数学は、殷代(紀元前1600-1050年)まで遡る。現存する最古の数学書物の一つが、周代(紀元前1050-256年)に書かれて多大な影響を与えた『易経』である。数学に関して、この本は六芒星の洗練された使い方を含んでおり、ライプニッツは『易経』に二進法の要素があると指摘した。 殷代以来、中国人はすでに十進法を完全に開発していた。初期の頃から中国人は基本的な四則演算(これは極東の歴史を支配した)、代数、方程式、そして算木を用いることで負の数を理解していた[要出典]。中国人は天文学で使うための算術および高等代数学により焦点を当てていたが、彼らはまた負の数、代数幾何学(中国幾何学のみ)、小数の使用法を開発する先駆けにもなった。 数学は六芸の一つであり、周代の学生はその習得を要求された。 それらを全て完璧に学ぶことが完璧な紳士の嗜みであり、中国で言う「多才多芸」な人に必要とされた。六芸は儒家思想にそのルーツがある。 中国で最古となる幾何学の研究は、墨子(紀元前470-390年)の弟子により編纂された紀元前330年頃の哲学的な正典『墨子』から始まっている。『墨子』は、物理科学に関連した多くの分野のさまざまな側面を説明し、同様に数学に関する小さくも豊富な情報を提供した。それは幾何学的な点の「原子的な」定義を提示しており、線がパーツに分けられると、残りのパーツを持たない(要はこれ以上小さく分割できない)部分すなわち線の最端を形成するものが点である、と述べている。ユークリッドの最初と3番目の定義およびプラトンの「線の始まり」と非常によく似ており、『墨子』は「点は出産時における胎児の頭の位置のように(線分の)終わりあるいは始まりにあるかもしれない。(その不可視性に関して)それに類似するものは何もない」と述べている。デモクリトスの原子論者と同様に、『墨子』は点が最小単位であり半分にすることはできない、それ以上は「何もない」から分割できない、と述べた。「長さの比較」や「平行」の定義を提示しながら空間および有界空間の原則とともに 、同じ長さの2線は常に同じ場所で終わると述べた。また、厚さの質がない平面は互いに接触することができないため積み重ねることができないという事実も説明していた 。同書は、体積の定義とともに、円周、直径、半径という単語認識を提示した。 数学的発展の歴史には証拠がいくつか欠落している。特定の数学的古典についてはまだ議論中である。例えば『周髀算経』は紀元前1200-1000年頃とされるが、紀元前300-250年の間に書かれたと確信している学者も多い。『周髀算経』は勾股定理(ピタゴラスの定理の特殊ケース)の徹底的な証明を含んでいるが、より天文計算に集中して掘り下げている。しかし、最近の考古学的発見である清華簡(紀元前305年頃)は、既知の10進法での最初の掛け算九九表など、秦代以前の数学のいくつかの側面を明らかにしている。 そろばんは紀元前2世紀に「算木計算」と並んで最初に言及された。算木計算(籌算)とは、連続した正方形格子に小さな竹棒が配置されるものである。
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