古代中国人の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 23:27 UTC 版)
本来の「東夷」「北狄」「西戎」「南蛮」の意味 「中華(文明)は漢人によるもの」とする考え方がそもそもの間違いとされる。以下、『誰も知らなかった皇帝たちの中国 岡田英弘(WAC BUNKO)』より。古代、洛陽盆地の東方に広がる黄河、淮河、長江の大デルタ地帯に住み、農業と漁業で生活を立て、河川と湖沼を舟をあやつって往来する人々を『夷』(い)といった。「夷」は「低」「底」と同じく「低地人」という意味で、東方の住人なので「東夷」ともいう。洛陽盆地の北方では、黄土高原東部の山西高原がモンゴル高原から南に突き出して黄河の北岸に接している。山西高原は、古くはカエデ、シナノキ、カバ、チョウセンマツ、カシ、クルミ、ニレなどの森林におおわれ、陰山山脈や大興安嶺山脈の森林に連なっていた。この森林地帯に住む狩猟民は、毛皮や高麗人参を平原の農耕民にもたらし、農産物を手に入れる交易を行っていた。この狩猟民を『狄』(てき)と言った。「狄」は交易の「易」と同じ意味で、北方の住民なので「北狄」ともいう。洛陽盆地の西方の、甘粛省南部の草原に住んでいた遊牧民は、平原の農耕民のところへ羊毛をもってやって来た。かれらは『戎』(じゅう)といった。「戎」は「絨」と同じく羊毛という意味で、西方の住人なので「西戎」ともいう。洛陽盆地の南方の山岳地帯には、焼き畑を耕す農耕民が住んでいた。かれを『蛮』(ばん)といった。「蛮」はかれらの言葉で人という意味で、南方の住人なので「南蛮」ともいう。 これらの生活様式の異なった人々(『東夷人』『北狄人』『西戎人』『南蛮人』)は、定期的に交易のために集まり、かれらの生活圏であった境の洛陽盆地やその周辺で互いに接触した。やがて、この人々が交易を行う場所に都市が発生したとされ、彼らが混ざり合って古代中国人の起源になった。黄河流域で最初に勢力をふるった「国」は『夏』である。夏人は、東南アジア系の文化をもった東夷で、内陸の水路をさかのぼってやってきて、河南省の黄河中流域に伝説の残る最古の王権を建てた。「夏」は「賈」や「価」と同じ意味で、夏人は「商人」を意味した。夏を征服して黄河流域に新しい王権を打ち立てたのが、北方の森林地帯から侵入した狩猟民(北狄)の殷人であった。殷人とその同盟種族は黄河流域の諸都市を支配し、その城壁の中では東夷系、北狄系、西戎系の人々が入り交じっていた。周人よりさらにおくれて、西方から隴西郡に入ってきた遊牧民が秦人である。これに対して、長江中流域の湖北省には、山地の焼畑農耕民(南蛮)出身の楚人が王国を建て、長江、淮河流域を支配して黄河流域の諸国と争った。かれらが中国人の先祖となった人々である。
※この「古代中国人の成立」の解説は、「四夷」の解説の一部です。
「古代中国人の成立」を含む「四夷」の記事については、「四夷」の概要を参照ください。
- 古代中国人の成立のページへのリンク