ワーナー時代とは? わかりやすく解説

ワーナー時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 08:47 UTC 版)

チャック・ジョーンズ」の記事における「ワーナー時代」の解説

1933年『ルーニー・テューンズ』や『メリー・メロディーズ』をワーナー・ブラザースアニメーション制作会社レオン・シュレジンガー・プロダクションにアニメーターとして入社し、『Buddy's Day Out』で、本格的にアニメーターデビューを果たす。また、この作品ワーナーアニメスタジオ制作した初の作品となった1935年にはシュレジンガー・プロダクションの新監督テックス・アヴェリーの許で働くことになった。この小さなスタジオ中にアヴェリーのための部屋はなく、アヴェリージョーンズはボブ・クランペット、バージル・ロス、シド・サザーランドといったアニメーターたちとスタジオ近くにある"Termite Terrace"(白蟻の館)と呼ばれる建物移ったクランペット監督就任した1937年ジョーンズクランペットの班に参加した。というのは、かつてジョーンズ雇っていたアブ・アイワークス1937年に4本のアニメ作品下請け委託したからである。 1938年フランク・タシュリンスタジオを去ると、ジョーンズ監督(このスタジオで監督にあたる職位は「スーパーバイザー」と呼ばれていた)に就任したジョーンズの初監督作品は、のちにスニッフルズ(Sniffles)というねずみへ発展するかわいらしい子猫出てくるナイトウォッチマンである。 1930年代から1940年代初期ジョーンズ作品豪華だったが、観客やレオン・シュレジンガー・スタジオのスタッフは、本物ユーモア欠如見抜いていた。のろのろ動き、「かわいらしさ」が過剰なジョーンズ初期の作品(特にTom Thumb in Troubleやスニッフルズ出演作)は、ウォルト・ディズニー短編二番煎じという印象強かった1942年の『ドーバー・ボーイズ(英語版)』でついにジョーンズ従来かわいらしさアニメにおけるお約束から抜け出すことができた。彼はこの作品を「どうやって面白くするかを教えてくれた」と評価する。この作品アメリカ映画初めリミテッド・アニメーション使用され作品でもあり、ディズニー影響されたよりリアルな作品とは別物になっていた。この作品以来、チャーリードッグ、 ヒュービーとバートや、3匹の熊といった現在ではあまり知られていないキャラクター制作され始める。今日こういったキャラクター知名度が高いとは言えないが、これらの初期キャラクター登場する作品ジョーンズ面白くすることを意図して制作した初期の作品代表するものとなっている。 第二次世界大戦の間、ジョーンズシオドア・スース・ガイゼル(Theodor Seuss Geisel、後のDr.スースとともに軍事教育アニメPrivate Snafuを制作したPrivate Snafuは当時一般大衆向け作品よりもきわどいものとなっており、スパイ行動怠惰戒める教育目的したものであった。後にジョーンズスース作品のアニメ化数多く手がけるようになり、代表的なもの1966年の『いじわるグリンチのクリスマス』(How the Grinch Stole Christmas!)である。 ジョーンズ1940年代後半からペース取り戻し1950年代納得の行く作品作り続けたこのころクロード・キャットやマーク・アンソニー&プッシーフット、チャーリー・ドッグやミシガンフロッグなどが作られ中でも有名なのがロードランナー&ワイリー・コヨーテである。ワイリー・コヨーテマーク・トウェインの『西部放浪記』(Roughing It)が元になっており、「背が高く病的でやせていて惨めな身なり骸骨」や「生ける欲望寓話である。彼は常に腹をすかしている」と『西部放浪記』内で表現がされている。マイケル・マルティーズ(Michael Maltese)が原案脚本担当したカモにされたカモ』(Duck Amuck)、『魅惑の蛙』(One Froggy Evening)、『オペラ座狩人』(What's Opera, Doc?)といったジョーンズ監督作品今日まで名作評されている。 ジョーンズチームAスタッフは、ジョーンズ自身同様作品成功に導くのに重要だった重要なメンバー中には脚本家のマイケル・マルティーズ、背景レイアウト助監督のモーリス・ノーブル、アニメーター助監督のエイヴ・レヴァイトー(Abe Levitow)、そしてケン・ハリスとベン・ワーシャム(Ben Washam)というアニメーターもいた。 1950年ジョーンズとマルティーズは、『標的は誰だ』の制作始める。ジョーンズらはこの作品で、ダフィー・ダック従来滑稽笑いを誘うキャラクターから、虚栄心強く自己中心的で、バッグズ・バニーを押しのけてスポットライト浴びたがる主役気取りキャラクターへと変更し以降作品でもこの位置付け定着したジョーンズいわく「バッグズ・バニーは僕らのなりたいもので、ダフィー・ダック僕らそのもの」。 1950年代通じてジョーンズはずっとワーナー・ブラザース仕事をしていたが、1953年ワーナーアニメ制作スタジオ一時的に閉鎖したことがあった。ロサンゼルスからバーバンク移設するためである。閉鎖の間はウォルト・ディズニー・ピクチャーズウォード・キンボール組み、4ヶ月クレジットなしで『眠れる森の美女』(1959年)の制作協力したワーナーアニメ部門再開した後に復帰した1960年代初頭ジョーンズ夫妻Gay Purr-eeの脚本担当した。この映画ジュディ・ガーランドロバート・グーレレッド・バトンズらがパリ猫たちの声を当てることになっていた。制作ユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカUPA)で、監督ジョーンズのかつての同僚 Abe Levitow。ジョーンズワーナー・ブラザース独占契約結んでおり、この映画の仕事ワーナーには無断引き受けたのだった。しかしUPA映画1962年完成させ、公開したところをワーナー・ブラザースに見つかってしまう。ジョーンズ契約違反知ったワーナー・ブラザースは、ジョーンズクビにし、それからまもなくアニメスタジオ閉鎖してしまった。自伝含めジョーンズあちこちジャック・ワーナーアニメスタジオ閉鎖決めた理由を「アニメスタッフミッキーマウスのようなアニメ作る気がないとようやく悟ったからである。」と言及している。そしてジョーンズは、途中まで手掛けていたバッグス・バニー主演映画取れぬウサギ皮算用原題:The Iceman Ducketh、1964年)』の製作から外れ後輩アニメーターであるフィル・モンローに代わり委ねた

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ワーナー時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 22:23 UTC 版)

R.E.M.」の記事における「ワーナー時代」の解説

移籍後アルバムグリーン』にて、マンドリンアコーディオン等のトラディショナル楽器積極的に取り入れ、後の「ルージング・マイ・レリジョン(Losing My Religion)」の大ヒットへと繋がる。 ストリングス大々的取り入れたオートマチック・フォー・ザ・ピープル』、ノイジーなロックアルバム『モンスター』、各地でのライブ演奏サウンドチェック8トラック録音した『ニュー・アドベンチャーズ・イン・ハイ・ファイ』、と作風異なアルバム次々と発表した歌詞やスタイプの歌唱明瞭になり、ステージで政治的なメッセージ声高にオーディエンス働きかける事も。その姿勢自体オルタナティヴ・ロック潮流の代表・先駆となっていった。

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ワーナー時代(再結成)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 15:29 UTC 版)

SOFT BALLET」の記事における「ワーナー時代(再結成)」の解説

解散後遠藤ENDSとしての活動藤井She-Shell他アーティスト作品への参加森岡ソロ他アーティストプロデュース活動等を展開していたが割愛。各メンバーの項目参照

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ワーニングライト日本で使用されているものと機能や形状はおおむね同じだが、アメリカではハロゲンやストロボ式以外にもLED式がかなり広く普及している。ハロゲンやストロボ式に比べ、LED式はかなり薄くできるのが特徴。高速走行で空気抵抗が強くなると稀に警光灯が風圧で取り付け部からもげてしまうことがあるので、高速での追尾を行うCHPは、ハロゲン式ながらより高速走行に耐えられるFederal Signal社の「Vector」を採用していた。しかしLED式の方が空力的に優れており、また警光灯としての性能も十分であることからLED式に変更した。近年ではハイウェイパトロール以外でも、Federal Signal社のVision SLR、ValorなどのLED式ライトバーを採用する機関が増えている。スリックトップと呼ばれる、通常の警ら用パトカーと同様の塗装を施しているものの、上のダッジ・チャージャーのようにライトバーを設置しないパトカーもある。元々は高速追尾時の空気抵抗を減らすためであり、より目立ちにくくなる効果もある。ワーニングライト

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