ワーナー時代
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「チャック・ジョーンズ」の記事における「ワーナー時代」の解説
1933年、『ルーニー・テューンズ』や『メリー・メロディーズ』をワーナー・ブラザースのアニメーション制作会社レオン・シュレジンガー・プロダクションにアニメーターとして入社し、『Buddy's Day Out』で、本格的にアニメーターデビューを果たす。また、この作品はワーナーのアニメスタジオが制作した初の作品となった。1935年にはシュレジンガー・プロダクションの新監督テックス・アヴェリーの許で働くことになった。この小さなスタジオの中にアヴェリーのための部屋はなく、アヴェリーとジョーンズはボブ・クランペット、バージル・ロス、シド・サザーランドといったアニメーターたちとスタジオの近くにある"Termite Terrace"(白蟻の館)と呼ばれる建物へ移った。 クランペットが監督に就任した1937年、ジョーンズはクランペットの班に参加した。というのは、かつてジョーンズを雇っていたアブ・アイワークスが1937年に4本のアニメ作品の下請けを委託したからである。 1938年にフランク・タシュリンがスタジオを去ると、ジョーンズは監督(このスタジオでは監督にあたる職位は「スーパーバイザー」と呼ばれていた)に就任した。ジョーンズの初監督作品は、のちにスニッフルズ(Sniffles)というねずみへ発展するかわいらしい子猫の出てくるナイトウォッチマンである。 1930年代から1940年代初期のジョーンズの作品は豪華だったが、観客やレオン・シュレジンガー・スタジオのスタッフは、本物のユーモアの欠如を見抜いていた。のろのろ動き、「かわいらしさ」が過剰なジョーンズの初期の作品(特にTom Thumb in Troubleやスニッフルズ出演作)は、ウォルト・ディズニーの短編の二番煎じという印象が強かった。 1942年の『ドーバー・ボーイズ(英語版)』でついにジョーンズは従来のかわいらしさやアニメにおけるお約束から抜け出すことができた。彼はこの作品を「どうやって面白くするかを教えてくれた」と評価する。この作品はアメリカ映画で初めてリミテッド・アニメーションが使用された作品でもあり、ディズニーに影響されたよりリアルな作品とは別物になっていた。この作品以来、チャーリードッグ、 ヒュービーとバートや、3匹の熊といった現在ではあまり知られていないキャラクターが制作され始める。今日こういったキャラクターは知名度が高いとは言えないが、これらの初期キャラクターが登場する作品はジョーンズが面白くすることを意図して制作した初期の作品を代表するものとなっている。 第二次世界大戦の間、ジョーンズはシオドア・スース・ガイゼル(Theodor Seuss Geisel、後のDr.スース)とともに軍事教育アニメPrivate Snafuを制作した。Private Snafuは当時の一般大衆向け作品よりもきわどいものとなっており、スパイ行動や怠惰を戒める教育を目的としたものであった。後にジョーンズはスースの作品のアニメ化を数多く手がけるようになり、代表的なものは1966年の『いじわるグリンチのクリスマス』(How the Grinch Stole Christmas!)である。 ジョーンズは1940年代後半からペースを取り戻し、1950年代に納得の行く作品を作り続けた。このころクロード・キャットやマーク・アンソニー&プッシーフット、チャーリー・ドッグやミシガンフロッグなどが作られ、中でも有名なのがロードランナー&ワイリー・コヨーテである。ワイリー・コヨーテはマーク・トウェインの『西部放浪記』(Roughing It)が元になっており、「背が高く病的でやせていて惨めな身なりの骸骨」や「生ける欲望の寓話である。彼は常に腹をすかしている」と『西部放浪記』内で表現がされている。マイケル・マルティーズ(Michael Maltese)が原案・脚本を担当した『カモにされたカモ』(Duck Amuck)、『魅惑の蛙』(One Froggy Evening)、『オペラ座の狩人』(What's Opera, Doc?)といったジョーンズの監督作品は今日まで名作と評されている。 ジョーンズのチームAのスタッフは、ジョーンズ自身同様作品を成功に導くのに重要だった。重要なメンバーの中には、脚本家のマイケル・マルティーズ、背景・レイアウト兼助監督のモーリス・ノーブル、アニメーター兼助監督のエイヴ・レヴァイトー(Abe Levitow)、そしてケン・ハリスとベン・ワーシャム(Ben Washam)というアニメーターもいた。 1950年、ジョーンズとマルティーズは、『標的は誰だ』の制作を始める。ジョーンズらはこの作品で、ダフィー・ダックを従来の滑稽で笑いを誘うキャラクターから、虚栄心が強く自己中心的で、バッグズ・バニーを押しのけてスポットライトを浴びたがる主役気取りのキャラクターへと変更し、以降の作品でもこの位置付けが定着した。ジョーンズいわく「バッグズ・バニーは僕らのなりたいもので、ダフィー・ダックは僕らそのもの」。 1950年代を通じてジョーンズはずっとワーナー・ブラザースの仕事をしていたが、1953年にワーナーがアニメ制作スタジオを一時的に閉鎖したことがあった。ロサンゼルスからバーバンクに移設するためである。閉鎖の間はウォルト・ディズニー・ピクチャーズでウォード・キンボールと組み、4ヶ月間クレジットなしで『眠れる森の美女』(1959年)の制作に協力した。ワーナーがアニメ部門を再開した後に復帰した。 1960年代初頭、ジョーンズ夫妻はGay Purr-eeの脚本を担当した。この映画はジュディ・ガーランド、ロバート・グーレ、レッド・バトンズらがパリの猫たちの声を当てることになっていた。制作はユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカ(UPA)で、監督はジョーンズのかつての同僚 Abe Levitow。ジョーンズはワーナー・ブラザースと独占契約を結んでおり、この映画の仕事はワーナーには無断で引き受けたものだった。しかしUPAが映画を1962年に完成させ、公開したところをワーナー・ブラザースに見つかってしまう。ジョーンズの契約違反を知ったワーナー・ブラザースは、ジョーンズをクビにし、それからまもなくアニメスタジオも閉鎖してしまった。自伝を含めジョーンズはあちこちでジャック・ワーナーがアニメスタジオの閉鎖を決めた理由を「アニメスタッフがミッキーマウスのようなアニメを作る気がないとようやく悟ったからである。」と言及している。そしてジョーンズは、途中まで手掛けていたバッグス・バニー主演の映画『取れぬウサギの皮算用(原題:The Iceman Ducketh、1964年)』の製作から外れ、後輩アニメーターであるフィル・モンローに代わりを委ねた。
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ワーナー時代
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移籍後のアルバム『グリーン』にて、マンドリンやアコーディオン等のトラディショナルな楽器を積極的に取り入れ、後の「ルージング・マイ・レリジョン(Losing My Religion)」の大ヒットへと繋がる。 ストリングスを大々的に取り入れた『オートマチック・フォー・ザ・ピープル』、ノイジーなロックアルバム『モンスター』、各地でのライブ演奏やサウンドチェックを8トラックに録音した『ニュー・アドベンチャーズ・イン・ハイ・ファイ』、と作風の異なるアルバムを次々と発表した。 歌詞やスタイプの歌唱は明瞭になり、ステージでは政治的なメッセージを声高にオーディエンスに働きかける事も。その姿勢自体がオルタナティヴ・ロックの潮流の代表・先駆となっていった。
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ワーナー時代(再結成)
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「SOFT BALLET」の記事における「ワーナー時代(再結成)」の解説
解散後、遠藤はENDSとしての活動、藤井はShe-Shellや他アーティスト作品への参加、森岡はソロや他アーティストのプロデュース活動等を展開していたが割愛。各メンバーの項目参照。
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