ヤンキース第1期黄金期・本塁打記録
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「ベーブ・ルース」の記事における「ヤンキース第1期黄金期・本塁打記録」の解説
1921年から1928年まで、ヤンキースは第1期黄金時代を迎え、アメリカンリーグで6回優勝し、ワールドシリーズで3回優勝した。その中でルースは、もうこれ以上の本塁打記録は生まれないと言われた本塁打記録をさらに更新する活躍を見せた。1921年、打率.378、59本塁打を記録し、ヤンキースをチーム史上初のリーグ優勝に導く。7月18日には、現役通算139本目の本塁打を放ち、それまでの通算本塁打王だったロジャー・コナーの記録をたった8年のプロ選手生活で更新する。ルースの名前はもはや本塁打の同義語として扱われ、野球というスポーツそのものに新しくパワーの概念を導入した。ルースが打った中で一番大きな本塁打は、1921年7月18日にデトロイトのネビン・フィールドでの一本といわれている。センター場外に消えていった打球は、175メートルの特大弾であった。 1921年当時は現在とは多少ホームランに関するルールが異なっていたため、もし現行のルールでルースがシーズンを送っていたら、彼はこの年に104本の本塁打を記録していただろうという研究もある。ビル・ジェンキンソンが2006年に執筆した本 “The Year Babe Ruth Hit 104 Home Runs” (和題:ベーブ・ルースが104本塁打を打った年)によれば、1931年までアメリカンリーグではファウルポールに直撃した打球はエンタイトルツーベース扱いであった。また、フェアゾーンでフェンスを越え、ファウルポールを巻いてファウルゾーンに落ちた打球は、現在では当然のごとく本塁打扱いになるが、当時はファウルであった。これらのデータを全て集計すると、ジェンキンソンによれば、ルースは104本塁打を記録していたことになる。それでも、ルースがこの年に記録した総塁打数 (457) 、長打数 (119) 、出塁数 (379) は、未だに破られていないMLB記録である。 ヤンキースは1921年にワールドシリーズまで進出した際、非常に高い期待を背負っていた。相手チームのニューヨーク・ジャイアンツに対し、最初の2試合は勝利したが、ルースが第2戦で盗塁をした際に肘を故障。結果的にルースは残りの試合を欠場(最終戦のみ代打出場)し、ヤンキースもジャイアンツに敗れた。このワールドシリーズでは、ルースは打率.316、1本塁打、5打点を記録している。 この直後にルースはまた不祥事に巻き込まれることになる。ワールドシリーズ終了後、ルースは地方巡業に参加したのだが、当時はシリーズ出場選手がオフに商業試合に出場することが禁止されていた。選手が勝手に「ワールドシリーズの再戦」と銘打った試合をオフに組むことにより、シリーズ自体の商品価値が下がるのを防ぐのがルールの目的であった。これを受け、当時のコミッショナーのケネソー・ランディスはルースを1922年シーズンの最初の6週間出場停止とした。 なお、この年にルースは打撃に関する研究のため、コロンビア大学に招かれた。その結果、研究者はルースが最も強打できるコースは外角ひざ上の高さであることを発見した。さらに、完璧な打撃をした場合のスイングスピードは秒速34メートル(120km/h超)で、ボールの飛距離は140から150メートルにまで達するということがわかった。また、異なるサイズの小さな穴に棒を差し込んでいくことで根気を調べる臨床試験では、ルースは500人の被験者中最高位を示した。他にも、ルースの目は暗室で点灯する電球に対して常人よりも20ミリ秒早く反応するなど、いずれも超人的な計測結果を記録した。このことについて、チームメートのジョー・デュガン(英語版)は「ルースは普通に生まれたんじゃない。奴は木から落っこちて来たのさ」と表現している。 1922年5月20日に処分が解けたルースは、ヤンキースのキャプテンに就任する。しかし、その5日後に、審判に泥を投げて退場処分を受け、さらには観客と乱闘をするという醜態を晒したために、キャプテンの地位を剥奪された。同年、ルースは110試合に出場し、打率.315、35本塁打、99打点を記録する。この年もヤンキースはワールドシリーズに出場し、再度ニューヨーク・ジャイアンツと戦うが、またもチームは敗退。ジャイアンツの監督ジョン・マグローは、自チームの投手に「ルースにはカーブしか投げるな」と指示し、これが功を奏してルースは17打席でわずか2安打という大不振でシリーズを終えた。 1923年にヤンキースは本拠地を、それまでジャイアンツから間借りしていたポロ・グラウンズから、ヤンキー・スタジアムへと移転する。「ルースが建てた家」と呼ばれたこの球場が開場した試合で、第1号本塁打を飾ったのはルースであった。このときのバットは2004年12月2日に1,265,000ドルで落札され、最も高価で落札された野球バットとしてギネス世界記録に認定された。1923年シーズンにルースは自己最高打率.393、41本塁打を記録。この年も3年連続でワールドシリーズの組み合わせがヤンキース対ジャイアンツになったが、ルースは過去2年間の鬱憤を晴らすかのように猛打が炸裂、打率.368、3本塁打に長打率1.000を記録した。ヤンキースはチーム史上初のワールドチャンピオンに輝いた。 ルースは1924年も三冠王級の活躍を見せる。打率.378で自身唯一の首位打者に輝くと、両リーグ1位の46本塁打を記録。121打点はグース・ゴスリンの129にわずかに届かない2位であった。この年、ヤンキースはワシントン・セネターズに2ゲーム差でリーグ2位に終わった。 ここまで好成績を残してきたルースではあったが、1925年にはプロ入り後初めての挫折に見舞われる。試合前にホットドッグやソーダ水を飲み続けるなどの不摂生、性病、そしてアルコール過多などにより、高熱や腹痛に悩まされるようになった。正確な病因は現在でも不明ではあるが、この年のルースはヤンキースでの選手生活の中で最低のシーズン(打率.290、25本塁打)を送る。ヤンキースも69勝85敗と大きく負け越した。 1926年は一念発起して、それまでの不摂生な生活を改め、練習に打ち込み、打率.372、47本塁打、146打点と成績を回復させた。ヤンキースはリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズへと駒を進めるが、ロジャース・ホーンスビー擁するセントルイス・カージナルスに3勝4敗で敗れた。ルース自身は第4戦に3本の本塁打を放つなど、バットでは貢献するものの、走塁ミスを犯す。2対3とヤンキースが1点差を追っていた第7戦、9回裏2アウトで一塁走者だったルースは果敢に二塁盗塁を狙うも、呆気なく刺されてしまい、チームは敗退。これはワールドシリーズ史上唯一、シリーズが盗塁死で終わった事例となっている。なお、この1926年のワールドシリーズでは、ルースは病の床にあった11歳の少年ジョニー・シルベスター(英語版)にホームランを打つことを約束し、実際に約束を果たしている。 1927年のヤンキースは歴史的なチームであり、その打線はあまりの強烈ぶりから「殺人打線(英語版)」と呼ばれていた。チームはリーグ記録となる110勝を達成し、19ゲーム差でリーグ制覇。ワールドシリーズでもピッツバーグ・パイレーツ相手に4連勝でワールドチャンピオンに輝き、見事な形でシーズンを終えた。 シーズン中、チームの順位は早々と決してしまっていたので、国民全体の期待はルースが何本の本塁打を打つのか、というところに注がれた。それまでの記録はルース自身が持つ59本であったが、それを超えるには幾つもの高いハードルがあった。年間59本を達成した1921年当時と比べて、相手投手はまともにルースと勝負しなくなっており、ルース自身も長年の不摂生から来る故障などを抱えていた。だが、60号を達成するにはプラスの要素もあった。強力な打線ゆえに打席がたくさん回ってくること、そして、チームメイトであり、ルース自ら打撃を指導するなどしていたルー・ゲーリッグの台頭である。実際、シーズンの途中まではゲーリッグはルースの本塁打数を上回るなど活躍。9月の1ヶ月間でルースが17本塁打を放つなどして追い抜いて、9月30日には60号を達成するが、後年ルースは、ゲーリッグの存在が大きく、彼がいたから相手投手もルースと勝負せざるを得なくなっていたと述べている。この年は、151試合の出場で、60本塁打に加えて、打率.356、164打点、長打率.772を記録。実に4度目となる本塁打記録更新であった。 1928年もヤンキースにとっては良いスタートとなり、7月の時点で2位のチームを13ゲーム差で突き放すことに成功していたが、その後はけが人の増加に投手陣の崩壊なども重なり、チーム成績は停滞。その間、フィラデルフィア・アスレチックスが快進撃を遂げ、9月に一瞬だけ、ヤンキースから1位を奪取することに成功。しかし、同月の直接対決4連戦でヤンキースが3勝し、首位の座を再び奪還することになる。ルースの成績もチームのパフォーマンスと比例していた。自身もチーム同様、ロケットスタートに成功し、8月1日の時点では42本塁打を放っていた。これは、前年の60本ペースをさらに上回るものであった。ところが、シーズン後半に踵の痛みに悩まされ、最後の2カ月では、たった12本しか本塁打を打つことができなかった。それでも最終的にシーズン54本塁打の記録を残し、自身4度目の50本塁打を達成することとなった。 1928年のワールドシリーズは、1926年の再戦となった。対戦相手のカージナルスはホーンスビーがトレードで退団していた以外は2年前のチームと変わっていなかった。このシリーズでは、ルースが打率.625(ワールドシリーズ史上2位の記録)を記録し、第4戦では再度3本の本塁打を放つ。さらにゲーリッグも打率.545を記録し、ヤンキースはカージナルス相手に3連勝する。ヤンキースはワールドシリーズでの4連勝(スウィープ)を2年連続で達成した初のチームとなった。
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