ミラクル・メッツ
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「1969年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ミラクル・メッツ」の解説
地区制とプレーオフ制度の導入という大きな変革を迎えた年だったが、多くの野球ファンには「ミラクル・メッツ」の優勝が記憶されている。ブルックリン・ドジャースとニューヨーク・ジャイアンツが、1957年限りでそれぞれカリフォルニア州ロサンゼルスとサンフランシスコに本拠地を移転したことで、ニューヨークにナショナルリーグの球団は不在となった。市長や市民から切望されて1962年にメッツが創設され、初代監督にケーシー・ステンゲル、GMにジョージ・ワイスと元ヤンキースの顔触れを揃えたが、初年度は20世紀以降のメジャー記録となる120敗(40勝)を喫して勝率.250と散々な成績で、その後1965年まで4年連続100敗以上で最下位と絵に描いたような弱小球団だった。1966年に初めて100敗を免れ(95敗)、ようやく最下位を脱出するものの9位で、翌年は101敗で再び最下位。余りにも弱いので「メッツが優勝するよりも前に人類は月の上を歩くだろう」と揶揄される有様だった。それでも人気は高く観客動員数は毎年のようにリーグ上位を記録。新本拠地シェイ・スタジアムが完成した1964年は1,732,597人を動員し、同年リーグ優勝のヤンキース(1,305,638人)より40万人以上も多かった。そんな中1965年のMLBドラフト12巡目で後の大投手ライアンを指名し、1966年のMLBドラフトでは全体1位の指名権を持ちながらレジー・ジャクソンを指名しなかったが、偶然の巡り合わせからシーバーを獲得、その後クーズマンがデビューして2人共エースに成長した。1968年はかつてドジャースで強打の一塁手だったギル・ホッジスが監督に就任し、順位は9位ながらそれまでで最高の勝率.451と徐々に力をつけていった。 そして迎えたこの年、シーバー、クーズマン、ルーキーのジェントリー(13勝)の先発陣、タグ・マグロー(9勝12セーブ)、ライアン(6勝)らリリーフ投手の活躍でリーグ2位のチーム防御率2.99を記録、100勝を挙げて地区優勝を成し遂げる原動力となった。一方の打線はエイジー(26本塁打)、クレオン・ジョーンズ(打率.340)、途中移籍のクレンデノン(12本塁打)、後に中日でもプレーするルーキーのウェイン・ギャレットとやや非力で、チーム打率・本塁打共にリーグの平均以下でしかなかった。そのためポストシーズンの対戦相手であるブレーブス、オリオールズと戦力を比較すると総合的に劣ると見られていたが、後に「全てが番狂わせ」と形容されるほど神懸かり的な勢いで一気に頂点まで辿り着いた。シェイ・スタジアムで行われたワールドシリーズ第5戦、57,397人の大観衆が見守る中逆転勝利でシリーズ制覇を果たし、弱小球団のシンデレラストーリーは最高のエンディングを迎えた。奇しくもアポロ11号が人類初の月面到達を果たしてから約3ヶ月後のことだった。優勝決定の瞬間、ニューヨークの中心街は紙吹雪に覆われ、天気予報では「今日の天気は晴れ、所により紙吹雪が舞うでしょう」と報じられた。
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