ホースマンとしてとは? わかりやすく解説

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ホースマンとして

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/03 09:47 UTC 版)

小川佐助」の記事における「ホースマンとして」の解説

1905年北海道浦河郡西舎村(後の浦河町)に生まれる。一帯アイヌ語でホロペツコタンという百数十戸のアイヌ根拠地があったが、小川出生時には官営日高種畜場が建設されており、数多く人々牧場内で働いていた。小川浦河高等国民学校卒業後、21歳の頃から馬の売買成功収めたのち、知己であった青山市之進に牧場用地売却し一時農家転業した。しかし競馬界に入ってから実入り良くなった青山の姿を見て自身競馬携わることを決意し26歳のとき青山弟子となる。以後静内で馬の育成調教携わっていたが、2年後青山落馬事故急逝したことから、葬儀参列していた調教師中森某の勧めで、自身静内調教していた4頭の馬と共に関西移った1934年末に京都競馬倶楽部騎手免許取得全国11競馬倶楽部統合した日本競馬会発足後1938年より専業調教師となった小川弁舌立ったことから阪神競馬場の青池良佐の勧め競馬会役員務めた1941年末より太平洋戦争勃発、その激化と共に1945年競馬開催中止されると、小川競馬会人馬疎開先として設置した北海道支所赴任、のち終戦迎えた。翌1946年には連合国軍最高司令部主催進駐軍競馬函館競馬場)に参加。のちに公式に競馬再開されると、1948年ニューフォード菊花賞制し、クラシック競走八大競走を初制覇1965年には自身弟子としていた甥の田所稔駆るニホンピローエース皐月賞優勝した。 そして1975年にはテンポイント入厩。同馬は関西3歳王者戦・阪神3歳ステークス制したのち、翌1976年からは関東トウショウボーイグリーングラスライバル関係築き、「TTG」と呼ばれたテンポイント1977年春に天皇賞を、年末には最大ライバルであったトウショウボーイ破って有馬記念優勝し同年年度代表馬選出された。翌1978年ヨーロッパ遠征を行う予定となっていたが、壮行戦として臨んだ日経新春杯競走中に骨折し43日間延命治療の末に死亡したテンポイント絡んでは、1977年宝塚記念トウショウボーイ敗れた際、小川彼我能力差は坂での鍛錬有無にあるとし、関西馬調教拠点である栗東トレーニングセンター坂路設置求めたことでその気運高まりその実現後に「東高西低」だった東西勢力図逆転する契機作ったとの評がある(詳しくテンポイント#小川による坂路コース建設の訴え参照のこと)。 1982年にはテンポイントの全弟・キングスポイント春秋中山大障害連覇したが、同馬も1984年秋の中山大障害での故障により安楽死措置が執られた。 1986年2月28日をもって調教師引退通算成績日本中央競馬会発足した1954年以降で6039戦610勝。翌1987年10月30日病気のため82歳で死去した

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ホースマンとして

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/28 01:43 UTC 版)

白井新平」の記事における「ホースマンとして」の解説

1929年12月白井新聞求人広告きっかけ月刊誌競馬ファン』を発行していた黎明社に入社する当初社長秘書のような仕事担当していた白井であったが、すぐに人手不足の『競馬ファン』の編集へと回された。ギャンブルを生活の手段とすることを「コンシャス・マスターベーション(良心的自慰)」と嘯きながらも、白井菊池寛吉田善助らの競馬人らとも関わりを持つことになる。 前述した日本染絨の争議の際には社から離れた時期もあったが、1932年には『競馬ファン週報創刊に際して現在まで一般的に用いられている馬柱によるレイアウト考案。また同年には、それまで出走馬の公式な管理なされていなかった地方競馬分野にも進出すると、地方競馬に関する実践的な馬券指南本も執筆した1937年には独立して競馬週報社を設立地方競馬予想雑誌競馬週報』を創刊し1938年には『競週ニュース』の名で公認競馬にも進出している。戦時統制により1939年競馬新聞各社統合され日本馬普及協会設立されると、白井はその専務理事就任した戦後1946年9月より、啓衆社と名を変えて競馬関係出版再開している。1946年より国営競馬におけるリーディングトレーナー・リーディングジョッキーの表彰始めたほか、年度代表馬選定フリーハンデ発表など、戦後日本競馬成立大きな役割果たした。またこの時期啓衆社からはのちに「競馬神様」と謳われる大川慶次郎や『優駿』の名物編集長となる宇佐見恒雄、『サラブレッドファミリー』『埼玉県競馬史』『アラブ系牝馬系統大鑑』を執筆した田辺一夫といった、有力な競馬評論家輩出された。白井自身もたびたび誌面上で筆を振るい伝貧アングロアラブ競走競走馬用途の馬輸入自由化などについては、一貫して国営中央競馬批判的な立場取っている。 また新聞・雑誌通した文筆活動のみならず1952年には渡米して繁殖用にサラブレッドトロッター16頭を輸入1957年にはランチョトマコマイという名の牧場設立するなど、馬主生産者として活動広げたさらには前述渡米の際にはアメリカ競馬導入されていたパトロールフィルム判定写真スターティングゲート感銘を受け、南関東公営競馬へこれらの導入提案1957年にはイギリス側招待で Crepello クレペロのエプソムダービー観戦し1960年第1回開催されアジア競馬会議においても、オブザーバー船橋競馬場馬主会理事として参加した。また通例勝負服には騎手ないしは枠番服が採用されている地方競馬にあって白井唯一特例として馬主服認められている。

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