ホースマンとして
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1905年、北海道浦河郡西舎村(後の浦河町)に生まれる。一帯はアイヌ語でホロペツコタンという百数十戸のアイヌの根拠地があったが、小川の出生時には官営の日高種畜場が建設されており、数多くの人々が牧場内で働いていた。小川は浦河の高等国民学校を卒業後、21歳の頃から馬の売買で成功を収めたのち、知己であった青山市之進に牧場用地を売却し、一時農家に転業した。しかし競馬界に入ってから実入りが良くなった青山の姿を見て、自身も競馬に携わることを決意し、26歳のとき青山の弟子となる。以後静内で馬の育成、調教に携わっていたが、2年後に青山が落馬事故で急逝したことから、葬儀に参列していた調教師の中森某の勧めで、自身が静内で調教していた4頭の馬と共に関西に移った。1934年末に京都競馬倶楽部で騎手免許を取得。全国11の競馬倶楽部を統合した日本競馬会発足後の1938年より専業の調教師となった。小川は弁舌が立ったことから阪神競馬場の青池良佐の勧めで競馬会の役員も務めた。 1941年末より太平洋戦争が勃発、その激化と共に1945年に競馬開催が中止されると、小川は競馬会が人馬の疎開先として設置した北海道支所に赴任、のち終戦を迎えた。翌1946年には連合国軍最高司令部主催の進駐軍競馬(函館競馬場)に参加。のちに公式に競馬が再開されると、1948年にニューフォードが菊花賞を制し、クラシック競走・八大競走を初制覇。1965年には自身の弟子としていた甥の田所稔が駆るニホンピローエースが皐月賞に優勝した。 そして1975年にはテンポイントが入厩。同馬は関西の3歳王者戦・阪神3歳ステークスを制したのち、翌1976年からは関東のトウショウボーイ、グリーングラスとライバル関係を築き、「TTG」と呼ばれた。テンポイントは1977年春に天皇賞を、年末には最大のライバルであったトウショウボーイを破って有馬記念に優勝し、同年の年度代表馬に選出された。翌1978年にヨーロッパ遠征を行う予定となっていたが、壮行戦として臨んだ日経新春杯の競走中に骨折し、43日間の延命治療の末に死亡した。テンポイントに絡んでは、1977年の宝塚記念でトウショウボーイに敗れた際、小川が彼我の能力差は坂での鍛錬の有無にあるとし、関西馬の調教拠点である栗東トレーニングセンターに坂路設置を求めたことでその気運が高まり、その実現後に「東高西低」だった東西勢力図が逆転する契機を作ったとの評がある(詳しくはテンポイント#小川による坂路コース建設の訴えを参照のこと)。 1982年にはテンポイントの全弟・キングスポイントが春秋の中山大障害を連覇したが、同馬も1984年秋の中山大障害での故障により安楽死の措置が執られた。 1986年2月28日をもって調教師を引退。通算成績は日本中央競馬会が発足した1954年以降で6039戦610勝。翌1987年10月30日、病気のため82歳で死去した。
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ホースマンとして
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1929年12月、白井は新聞の求人広告をきっかけに月刊誌『競馬ファン』を発行していた黎明社に入社する。当初は社長の秘書のような仕事を担当していた白井であったが、すぐに人手不足の『競馬ファン』の編集へと回された。ギャンブルを生活の手段とすることを「コンシャス・マスターベーション(良心的自慰)」と嘯きながらも、白井は菊池寛や吉田善助らの競馬人らとも関わりを持つことになる。 前述した日本染絨の争議の際には社から離れた時期もあったが、1932年には『競馬ファン週報』創刊に際して現在まで一般的に用いられている馬柱によるレイアウトを考案。また同年には、それまで出走馬の公式な管理がなされていなかった地方競馬の分野にも進出すると、地方競馬に関する実践的な馬券指南本も執筆した。1937年には独立して競馬週報社を設立。地方競馬の予想雑誌『競馬週報』を創刊し、1938年には『競週ニュース』の名で公認競馬にも進出している。戦時統制により1939年に競馬新聞各社が統合され日本馬事普及協会が設立されると、白井はその専務理事に就任した。 戦後は1946年9月より、啓衆社と名を変えて競馬関係の出版を再開している。1946年より国営競馬におけるリーディングトレーナー・リーディングジョッキーの表彰を始めたほか、年度代表馬の選定やフリーハンデの発表など、戦後日本競馬の成立に大きな役割を果たした。またこの時期の啓衆社からはのちに「競馬の神様」と謳われる大川慶次郎や『優駿』の名物編集長となる宇佐見恒雄、『サラブレッド、ファミリー』『埼玉県競馬史』『アラブ系牝馬系統大鑑』を執筆した田辺一夫といった、有力な競馬評論家が輩出された。白井自身もたびたび誌面上で筆を振るい、伝貧やアングロアラブ競走、競走馬用途の馬輸入自由化などについては、一貫して国営・中央競馬に批判的な立場を取っている。 また新聞・雑誌を通した文筆活動のみならず、1952年には渡米して繁殖用にサラブレッドとトロッター16頭を輸入。1957年にはランチョトマコマイという名の牧場を設立するなど、馬主・生産者としても活動を広げた。さらには前述の渡米の際にはアメリカ競馬で導入されていたパトロールフィルム・判定写真・スターティングゲートに感銘を受け、南関東公営競馬へこれらの導入を提案。1957年にはイギリス側の招待で Crepello クレペロのエプソムダービーを観戦し、1960年に第1回が開催されたアジア競馬会議においても、オブザーバーや船橋競馬場の馬主会理事として参加した。また通例勝負服には騎手服ないしは枠番服が採用されている地方競馬にあって、白井は唯一特例として馬主服を認められている。
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