シドニーオリンピックまで
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「阿武教子」の記事における「シドニーオリンピックまで」の解説
高校2年以来となる予選から勝ち上がっての出場となった全日本では、準々決勝で大会3連覇を狙う二宮を2-1と微妙な判定ながら破り、準決勝でも前田に3-0で判定勝ちして昨年の雪辱を果たして、決勝でも住友海上の上野雅恵を終了間際の大内刈で有効を取って破り、今大会3年ぶり5度目の優勝を果たした。なおこの大会への出場は結果として今回が最後となった。続く体重別では決勝で松崎に判定勝ちで優勝して、世界選手権代表に選ばれた。 10月のバーミンガムでの世界選手権では、準決勝で前年のアジア大会で敗れた姜から注意を取って雪辱を果たすと、決勝では中国の尹玉峰に先に注意を取られてリードされるものの、ラスト50秒ほどのところで豪快な大内刈をきめて逆転の一本勝ちをして大会2連覇を達成した。12月には福岡国際に出場するが、準決勝でベルギーのハイジ・ラケルスに有効を取られて敗れるも、3位決定戦ではフランスのサンドラ・ボルドリューに崩袈裟固で一本勝ちして3位に入った。 2000年4月の体重別では決勝で松崎から大内刈で効果を取って優勢勝ちで優勝して、シドニーオリンピック代表に選ばれた。シドニーオリンピックでは、前回アトランタでの雪辱を期すつもりで臨んだ。しかし、極度の緊張のため体重も78kg級の選手でありながら71.8kgまで落ち込んだ影響もあって、初戦で元世界チャンピオンであるイタリアのエマヌエーラ・ピエラントッツィを思うように攻め込めず逆に指導を取られると、その後ポイントを取り返せずに試合終了となって優勢負けを喫して、前回に続いてまたしてもオリンピックでは初戦で敗れる結果となってしまった。2度のオリンピックで優勝はおろか1勝も出来ない様子は、「柔道界の七不思議」と言われるほどだった。また阿武もシドニー五輪後は特に大きなショックを受け、1ヶ月間柔道衣を着なかったという。
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シドニーオリンピックまで
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「上野雅恵」の記事における「シドニーオリンピックまで」の解説
1997年4月からは住友海上に入社して、柔道部の一員になった。8月の実業柔道選手権では、決勝で近畿通関の中市陽子を判定で破って優勝を果たした。11月の全国女子体重別では、2回戦で純真女子短期大学教員の本田由記子に敗れた。 1998年4月の全日本選手権準決勝では、準々決勝で警視庁の阿武教子に背負投で一本勝ちした筑波大学1年の前田桂子を判定で破るも、決勝ではコマツの二宮美穂に合技で一本負けしたが、70kg級の選手ながら19歳にして全日本の決勝まで進出した。5月の選抜体重別では、準々決勝でミキハウスの吉田早希に敗れた。8月の実業柔道選手権決勝では、住友海上の1年先輩である貝山仁美から有効3つを取って快勝して2連覇を成し遂げた。9月の全日本ジュニアでは、準決勝で福岡工大付属高校3年の本田明日香に判定で敗れて3位に留まった。11月の全国女子体重別では、決勝で警視庁の中村友栄に上四方固で一本勝ちして、今大会初優勝を飾った。 1999年1月には福岡国際に初出場するが、準決勝で塩谷建設の佐野奈津子に効果を取られて敗れるが、3位決定戦で韓国の崔英煕に縦四方固で一本勝ちして3位になった。2月のドイツ国際では、準決勝でドイツのイヴォンヌ・バンサルトに小外掛で敗れるが、3位決定戦ではイタリアのイレニア・スカピンを横四方固で破って3位となった。4月の全日本選手権では、準決勝で大阪府警の山本恵を技ありで破って2年連続決勝に進み、阿武と試合終盤まで互角の展開を繰り広げるものの、最後は大内刈で有効を取られて2位に終わった。5月の体重別では、準決勝で吉田に有効を取られて敗れるが、3位決定戦で福田に注意で勝った。体重別の結果は3位だったものの、世界選手権の代表に選出された。10月にイギリスのバーミンガムで開催された世界選手権では、3回戦でベルギーのウラ・ウェルブルックに大外刈で有効を取られて敗れたが、その後持ち直して3位決定戦まで勝ち上がるものの、そこで地元イギリスのケイト・ホーウェイに開始直後の双手刈で一本負けして5位に終わった。11月の全国女子体重別では、決勝でコマツの天尾美貴から有効を取って今大会2連覇を達成した。 2000年2月のドイツ国際では、準決勝でホーウェイに一本背負投で敗れるが、3位決定戦ではスカピンから有効を取って3位となった。4月の体重別では決勝で天尾に警告で敗れたものの、女子代表監督の吉村和郎によれば、「上野は精神的に強く、物事に動じないところがあり、天尾よりメダル獲得の可能性が高い」だとして、シドニーオリンピック代表に選ばれた。5月に大阪で開催されたアジア選手権では、準決勝でアトランタオリンピック66kg級金メダリストである韓国の曺敏仙に縦四方固で一本勝ちすると、決勝でもモンゴルのドロジュゴトフ・ツェレンハンドに出足払で一本勝ちして、オール一本勝ちで今大会を制した。9月のシドニーオリンピックでは、初戦、2回戦ともに一本勝ちするが、3回戦でスペインのウルスラ・マーティンに足車で一本負けを喫すると、敗者復活戦でもウェルブルックに合技で敗れて9位に終わった。この時は体重管理がうまくいかず、70kg級の選手ながら66kgしかなくスタミナがすぐ切れてしまったという。
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シドニーオリンピックまで
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オリンピック後最初の大会となった12月の福岡国際では、準決勝で李愛月に2-1の判定で辛うじて勝利すると、決勝ではサボンに注意で勝って優勝した。 1997年1月には大阪で初開催された女子の国別団体世界一を決めるワールドカップ団体戦 に、日本チームの一員として準決勝のキューバ戦のみに出場して、そこでサボンを背負投の有効で下して勝利したが、チームは敗れて3位になった。 5月の体重別では長井から燕返で有効を取って勝ち、世界選手権代表に選出された。 10月にパリで開催された世界選手権では、準決勝で北朝鮮のペ・ドンスクを出足払と背負投の合技で下すと、決勝でもサボンから内股で有効を取って破り大会3連覇を達成した。 12月の福岡国際では決勝で長井を指導で下して優勝した。 1998年には帝京大学を卒業すると、トヨタ自動車に入社した。また、日体大の大学院にも進学することになった。当初は就職せず帝京大学の大学院に進学する予定もあったが、そうしなかった点については、「自分の人生の中で社会人の経験をしておく必要がある。人生においていろいろなことを吸収したい」からだと説明した。 5月の体重別では決勝で住友海上の真壁友枝から体落で有効を取って優勝した。 9月にミンスクで開催されたワールドカップ団体戦では、準決勝でフランスチームのジョシネと対戦して、相手の大内刈を返して有効を取り勝利したが、チームは敗れて最終的に5位にとどまった。 11月の全国女子体重別では決勝で長井から警告を取って優勝した。 アジア大会が12月にあったために1か月先延ばしになって開催された1999年1月の福岡国際決勝では、アジア大会で優勝して勢いづく真壁を小外掛一本で破り優勝した。 5月の体重別では決勝で長井を3-0の判定で下して世界選手権代表に選出された。 10月にバーミンガムで開催された世界選手権では、準決勝で韓国の朴成子を注意で破ると、決勝ではサボンを3-0の判定で下して大会4連覇を果たした。 12月の福岡国際では決勝でサボンを3-0の判定で破り、今大会10連覇を達成した。この際に次のように語った。「90年代を制覇し続けられたことは本当にうれしい。勝つことは難しい。勝ち続けることはもっと難しい。しかし、今日の経験は、シドニーで必ず生きる。今まで経験してきたことを発揮するときがいよいよ来たんです。やるしかない。」。 2000年4月の体重別では決勝で東和大学4年の濱野千穂を注意で破り、52kg級の山口香に続いて今大会での10連覇を達成して、シドニーオリンピック代表に選出された。 9月のシドニーオリンピックでは、「最高で金(メダル)、最低でも金(メダル)」という言葉と共に臨んだ。しかし、初戦では中国の趙順心と対戦するとペースを掴めずに終盤まで縺れ込み、旗判定になったら負けにされる可能性もあったものの、終了1秒前に内股返の有効で辛うじて勝利した。続く準々決勝ではウクライナのリウドミラ・ルシニコワに払腰で一本勝ちした。準決勝では北朝鮮のチャ・ヒョニャンを攻め立てるもポイントは取れず、両者注意を与えられるが3-0の判定で破った。そして決勝ではロシアのリュボフ・ブルレトワを開始38秒の内股一本で破り、自身初のオリンピック金メダルに嬉し涙を流した。また、初のオリンピック金メダル獲得を「ようやく初恋の人に出会えた」と表現した。さらにこの金メダルが評価されて、福岡県では初となる県民栄誉賞を受賞した。なおこの時点では、将来結婚したら専業主婦に納まるのが理想で、自分の子供には柔道をやらせたくないと語っていた(後に結婚して男児2名をもうけたが、両者には柔道でなくアイスホッケーに取り組ませている。また、参議院議員を一期務めた後は専業主婦になった)。
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シドニーオリンピック(2000年)まで
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「室伏広治」の記事における「シドニーオリンピック(2000年)まで」の解説
1997年にミズノに入社。同年の世界陸上アテネ大会では74m82を投げて10位。1998年4月26日に行われた群馬カーニバルで父・室伏重信の持つ日本記録を更新する76m65を記録。12月13日のバンコクアジア大会では78m57で大会初優勝。1999年の世界陸上セビリア大会では75m18を投げて予選14位。 2000年5月13日の大阪国際グランプリでは初の80メートルスローとなる80m23を記録して優勝。シドニーオリンピックでは雨天のコンディションから76m60で9位に終わり入賞を逃した。IAAFグランプリファイナルでは80m32で2位。
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