カサール時代
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キーナンが会長、カサールが社長に繰り上げ昇格したが、キーナンも程なく1979年10月に退職(その後もブッシュネルと仕事の付き合いがあった)、カサールが会長となった。これまで自由だったアタリは厳しい社風に一変、スーツや入館用ICカードが義務付けられる。異なる部門は出入りが制限され、顔も名前も分かりにくくなった。これは既にワーナー売却前、別の会社のゲームとよく似たゲームが別会社から発売され、訴訟になったことが理由の一つである。 アタリアン達もどんどん解雇か、依願退職となった(ただしそういった環境でも在籍し続け優れたアーケードゲームを開発し続けたアタリアンもいる)。退職した有能なアタリアン達の中には、Atari 2600用のサードパーティー会社を立ち上げる者もいた。1979年設立のアクティビジョンはその嚆矢であり、世界初のサードパーティゲームメーカーである。Atari 2600のグラフィックチップを開発したJay Minerはこの頃に退職し、Atari 2600用のジョイスティックを開発するためとの名目でAmiga社を設立、新型ハードの開発に乗り出している。アルコーンも自分の電子ゲーム企画を没にされたため、1981年に退職している(その後、後輩とも言えるジョブズの作った、Apple Computerに勤めた時もある)。 カサールはアタリアン達の企画したゲームをどんどん没にしただけでなく、アーケード部門にも予算節減など様々な妨害を加え始めた。この頃からアタリショックまでのアーケード作品は、フライヤー(チラシ)が白黒になる、毎年の新作数が半分強に減る等の妨害があった。しかしそれでも、アタリの売り上げは差別されたアーケード部門が稼ぎ、優遇された家庭用部門の成績は乏しくなかった。 カサールの唯一の功績は、日本の『スペースインベーダー』が売れていたため、Atari 2600への移植を提案したことである。これで1980年にAtari 2600はやっと売れ始めた。1980年のアタリの売上高は前年比の2倍の4億1500万ドル、営業利益が前年比の5倍の7700万ドルに達し、ワーナーグループ全体の営業利益の1/3をアタリが占めた。1981年には売上高が10億ドル、利益が3億ドルに伸びた。 1981年にワーナーの予算会議に出席したカサールはアタリの市場における地位は1986年までに確実なものとなり、60億ドルの総収入、20億ドルの利益が出ると予測した。この年にロスはカサールに対して600万ドルのボーナスを与えた。トランプタワーの豪華なアパートメントも会社から買い与えられた。カサールやアタリの幹部たちはリムジンや会社のジェット機で旅行し、何処であれ最高級ホテルに宿泊した。1982年春の年次売上会議はモンテカルロで開かれ、最高級ホテルが宿泊場所となった。 同時にロスは急激な収益の増加が、いつか反転に転じることもあり得ると予測していた。パートナーをつけてハードウェアの開発を進める案もでたが実現しなかった。リスクをヘッジするためにアタリの株式を公開して半分を売る計画を立てたが、やはり実現はせずに終わった。 1982年にAtari 2600の累計販売台数は1000万台を越えていた。急激な売上の増加のために生産が追い付かず、生産量の見込みを立てるため、1981年10月にアタリは販売代理店に対し翌年分の一括注文を求めた。しかしこれが裏目となりアタリにとって後に致命傷になる。翌1982年も市場の高成長を予想していた販売代理店は、品切れを防ぐためにアタリに対し大量の注文を行い、アタリはそれを鵜呑みにして誤った需要予測を行い、ゲームソフトのカートリッジを過剰に大量生産した。翌1983年になると市場でのゲームソフトの供給過多のため発注の多くがキャンセルされてしまい、アタリは大量の不良在庫を抱える羽目になる。 1980年にアーケードゲームとして登場しアメリカでも大ヒットしたナムコの『パックマン』は1982年にAtari 2600に移植された。カサールに無許可で移植が決定されたため、カサールを激怒させたが、これが『スペースインベーダー』に次ぐ2発目のキラーソフトとなった。Atari 2600の人気は頂点に達した。しかしAtari 2600版『パックマン』の出来は劣悪で、しかも前述の誤った需要予測により当時のAtari 2600本体の稼働台数を何百万本も上回った数のカートリッジが生産されたため、大量の売れ残り在庫が生じた。 また一方で「人気タイトルならAtari 2600でゲームにすればなんでも売れる」と誤解され、レベルの低いソフトが粗製濫造された。1982年のアタリハード向けソフト販売におけるアタリのシェアは、前年の80%から56%に大きく低下した。アタリが自ら作ったソフトでは、人気映画の『E.T.』ゲーム化が大失敗した(ただし、「当時はとっつき難かったが、妙に変わっていて面白いゲームだ」と支持する声も現在まで一部に聞かれる)。さらに1982年にはコモドールのホビーパソコン「コモドール64」やコレコのゲーム機「コレコビジョン」といった競合機が発売され、Atari 2600のシェアを浸食し始めた。アタリはAtari 2600の後継機「Atari 5200」を発売するが、Atari 5200はAtari 2600との互換性がなく、Atari 2600で築いたシェアが優位にならなかった。 アタリだけでなく親会社であるワーナーにも危機が迫っていた。レコード店でのアタリ製品流通を担当していたWEAの社長は82年の春にロスへ相談した。遡ると1978年にワーナーが買収したときにWEAがアタリ製品の供給を担当する話が出たが実現しなかった。アタリが急成長していったときにも提案したが、販売店拡大に奔走するカサールが反対した。その結果は前述のように販売店の損得勘定による過剰発注で裏切られた。 アタリの相談役をしていたジャック・ホルツマンは、82年6月に会社を売るべきだと進言する書簡をロスへ送った。在庫が膨らみ過ぎているという理由だった。レコード会社を買収してきたロスの周囲にはデヴィッド・ゲフィン、モー・オースティン、ジャック・ホルツマンといった有名なソフト産業の玄人が多かった。 しかし、もはやアタリの収益はワーナーの株価と連動しており不可分になっていた。ワーナーの株が6年間で3000%上がったのはアタリの業績による。8月には過剰な在庫が財務諸表に数字として表れた。6500万ドルの在庫を償却するという数字が出た直後にロスを含めた幹部のなかにワーナー株を売る動きがあった。そして12月にアタリの見積収益が報告された。 1982年12月8日、ワーナーはアタリの売上下降を理由として同年第4四半期の利益を下方修正し、翌日ワーナーの株価は暴落した。アタリの売上は翌年の第1四半期にかけて急落した。日本ではアタリショックと呼ばれる、北米家庭用ゲーム市場崩壊の始まりである。 それでもカサールはロスに楽観的な見積りを示し続けた。83年の第2四半期の損失は3億1千50万ドルになった。最終的にはこの年のアタリの損失は5億ドルになった。ワーナーの株価はこの年の始めには20ドルになった(前年は63ドル50セントだった)。 インサイダー取引の疑惑が持たれていたカサールは1983年7月に解任された。 ワーナー側の弁護士はカサールの不正追求に積極的に協力した。その過程で前年12月の発表時より1ヶ月前に完了したロスの(つまり暴落以前の)自社株売却が見過ごされた。ロスは株売却で2千百万ドルを得た。これに対して株主による訴訟もあったが和解で決着した。この中でロスは、アタリについて問題があると報告を受けてはいなかったし、12月に報告を受けた際には驚きと怒りを感じたと証言した。 カサールの後任であるジェームズ・モーガンの初仕事は社内の無駄減らしで、次に『E.T.』のカセットの大量処分(「ビデオゲームの墓場」の項目を参照)、そして社員のリストラであった。このリストラ直前がアタリの最大社員数で、1972年にたった2人で始めた会社が、1983年には約9,800人に膨れ上がっていた。リストラの結果、経営状況はある程度改善し、赤字の垂れ流し状態であったアタリの家庭用ゲーム機部門にも復調の兆しが見え始めた。 失敗の反省から特約卸売業者との契約も流通システムも見直された。ロスもアタリの復活を声高に叫んだが、パートナーは見つからず密かに売却先を探した。翌年を含め2年間でワーナーの損失は10億ドルに上り王国は弱体化、取引銀行の出方次第では破産する直前まできてしまった。 1984年にワーナー本社が豪メディア王ルパード・マードックによる買収攻勢に遭う。経営改善より分離売却がロスの選択でありワーナーは家庭用ゲーム機部門と、Apple Computerやコモドールなどの他社に押され気味であったパソコン部門の切り離しを決定。1985年にアタリはアーケードを中心とするアタリゲームズと、家庭用ゲームやホビーパソコンを中心とするアタリコープの2社に分割される。
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