横山やすし・西川きよし
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横山やすし・西川きよし | |
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メンバー |
横山やすし 西川きよし |
別名 | やすしきよし、やすきよ |
結成年 | 1966年 |
解散年 | 1989年 |
事務所 | 吉本興業 |
活動時期 | 1966年 - 1986年 |
出会い | 吉本興業 |
芸種 | 漫才 |
ネタ作成者 | 両者 |
過去の代表番組 |
ヤングおー!おー! やすきよの腕だめし運だめし スター誕生! やすきよ笑って日曜日 など |
同期 | 立川談志(きよし)、コント55号、ザ・ドリフターズ、桂文枝 |
受賞歴 | |
1967年 上方漫才大賞 新人賞 1970年 上方漫才大賞 大賞 1980年 文化庁芸術祭 大衆芸能部門 芸術祭優秀賞 1984年 上方お笑い大賞 大賞 1996年 上方漫才大賞 審査員特別賞 |
横山やすし・西川きよし(よこやまやすし・にしかわきよし)は、横山やすしと西川きよしによる、かつて吉本興業に所属し活動していた漫才コンビ。司会者としても活動していた。
通称は「やすしきよし(やすし・きよし)」「やすきよ(やす・きよ)」など。また、その独特の形式とテンポを持った漫才(後述)を特に「やすきよ漫才」と呼ぶこともある。
当たりギャグは「怒るでしかし!」(やすし)、「小さな事からコツコツと」(きよし)。
メンバー
- 主にボケ担当、立ち位置は向かって左。
- 主にツッコミ担当、立ち位置は向かって右。
概要
コンビ略歴
コンビ解消を繰り返していたやすしが中山礼子・八多恵太の勧めで吉本新喜劇の役者だったきよしを誘い、1966年5月21日にコンビ結成。コンビとしての初舞台は同年6月1日の京都花月[1]。1960年代の演芸ブームで世に出て人気者となる。その後1980年代に至るまでテレビ番組の司会などで活躍。1980年代初頭の漫才ブームでは東西のリーダー格として頂点に達した。
1986年、きよしが国会議員(参議院)に当選して以降は活動休止状態となった。コンビとしての最後のテレビ出演は、『MAGMA30』での「二府四県対抗なんでもコンテスト」の司会だった。一方、やすしは度重なる不祥事で活動機会が激減し、やがて吉本興業の専属契約を解除。これによってコンビは事実上の解散状態となった。再結成がないままやすしは1996年1月21日死去。きよしは2004年に参議院議員が任期満了となった後も、レギュラー番組を持つなど、第一線で活躍している。
きよしはやすし死去後、吉本興業の後輩で、漫才師の大平サブロー(元太平サブロー・シロー)扮する「やすし」とのコンビで「やすし・きよし」をエキシビジョン復活させた。このコンビはその後も、演芸関連の特別番組などで、不定期に活動をしている。他にきよしは「あの世から帰ってきた」という設定でCGによって再現されたやすし(声はサブロー)と漫才をしたこともある。
芸風
やすし・きよしの初期のネタは、やすしが漫才のネタの台本の半分以上を書き、きよしがそのネタに訂正を加える形で行われたという。当初はお互いがお互いを蹴飛ばしたり投げ飛ばしたりし、「黒い背広が(ホコリで)真っ白になった」というほどの激しい「暴力漫才」で名を売った[1]。
また、ライバルを見て、秘策を考えるなど、コンビが成功するために数多くのチャレンジをしていった。「客を波打たせる[1]」をキーワードに、動きのギャグを控えて言葉のギャグの比率を高め、芸にメリハリを付け、間断なく客を笑わせるための芸風の改良をおこなっていった。
やすし・きよしは両方ともボケ・ツッコミができ、漫才の流れによっては、やすしがボケてきよしがツッコミをしている時に、不意にきよしがボケてやすしがツッコむという局面がある。つまり、漫才中に役割(ポジション)が突如交代する。この当時新奇だった形式は「『ボケ』と『ツッコミ』を交互に入れ替える“型破り漫才”[1]」と評された。
また、「やすきよ」の漫才で特徴的なのは、その絶大な人気と、伝説化したやすしという芸人の存在のみならず、ボケがシナリオを外しそれをツッコミが軌道修正してゆくという従来の役割を逆転させ、「一見ツッコミでありながらその実、漫才をリードしてゆくボケ」という手法がやすしによって確立されたところにある。この「リードするボケ」という観念は、漫才ブームの中でツービート、B&B、島田紳助・松本竜介などのフォロワーを生み、その後の漫才を活性化させた。
やすし・きよしのマネージャーを8年務めた木村政雄は、「やすし・きよしのお二人は、(「漫才ブーム前」と「ブーム後」という)2つの時代を橋渡しした、唯一無二の存在であったと言えるのではないでしょうか。51歳の若さで早逝されたやすしさんばかりが伝説化、神話化されているのに比して、70歳のリアルな姿を今も見せ続けなければいけないきよしが割に合わないと思います。」と評している[2]。
出演
(コンビとしての出演のみを記載。個人での出演については、各人の項目を参照)
テレビ
- ヤングおー!おー!(毎日放送)
- モーレツ!!しごき教室(毎日放送)
- サンデーお笑い生中継(毎日放送)
- 婚約診断スイッチON(毎日放送)
- やすきよの結婚します!(毎日放送)
- てなもんや三度笠(朝日放送) - 第297話 - 第309話(コンビとして)
- かねてつトップ寄席(朝日放送)
- 仁鶴・やすきよのただいま恋愛中(朝日放送)
- やすしは初期のみ出演。のちに笑福亭仁鶴ときよしの2人司会となる。
- シャボン玉プレゼント(朝日放送)
- 夕焼け笑劇場 タックルでぶっ飛ばせ(朝日放送)
- プロポーズ大作戦(朝日放送)
- 満開!ピープルテレビ(朝日放送)
- 爆笑寄席(関西テレビ)
- 花王名人劇場(関西テレビ)
- 相性診断!あなたと私はピッタンコ(関西テレビ)
- お笑い金曜劇場(1966年10月7日、よみうりテレビ)- テレビ初出演
- おや!おや?親子(よみうりテレビ)
- あの町この町評判家族(よみうりテレビ)
- お笑いネットワーク(よみうりテレビ)
- やすきよのスター爆笑Q&A(よみうりテレビ)
- やすきよの腕だめし運だめし(よみうりテレビ)
- おはよう!こどもショー(日本テレビ)
- テレビ三面記事 ウィークエンダー(日本テレビ)
- スター誕生!(日本テレビ)
- シャボン玉 歌まね合戦スターに挑戦!(日本テレビ)
- ミニミニ・バンバン(TBS)
- 初笑い!うるとら寄席(TBS)
- お茶の間寄席(フジテレビ)
- 初詣!爆笑ヒットパレード(フジテレビ)
- THE MANZAI(フジテレビ)
- 象印ライバル対抗大合戦!(テレビ朝日)
- やすきよ笑って日曜日(テレビ朝日)
ラジオ
映画
- 透明剣士(大映)
- あゝ独身(大映)
- ヤングおー!おー!日本のジョウシキでーす!(東映)
- じゃりン子チエ(東宝)声の出演:アントニオ/アントニオJr(やすし)、小鉄(きよし)※予告編のナレーションも、2人で担当
CM
- 徳島製粉 金ちゃんヌードル ほか(1980年代。個人としての出演もあり)
- 日本国有鉄道(現・JR) トクトクきっぷ(1984年)
- バイエル薬品 スコーピオ(1985年)
- 明治製菓(現・明治) ラッキースティックチョコレート(1985年)
- チェスコム
関連項目
- 間寛平 - やすきよと同じく高知県で生まれ、大阪府で育った。
脚注
外部リンク
やすしきよし
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 16:51 UTC 版)
1966年に中山礼子が間に入る形で、横山やすし(きよしと同じ高知県生まれの大阪府育ち)と漫才コンビを結成し、6月に京都花月で初舞台。次第に頭角を現す。第一次演芸ブーム(1965年 - 1970年)の折、東京ぼん太の後釜として起用されたフジテレビ「お茶の間寄席」司会や、朝日放送の全国ネット番組「てなもんや三度笠」のレギュラー出演等で東京に進出し、1970年の暴行事件をはじめとした相方のやすしの不祥事でコンビ活動自粛の際も、「素人名人会」(毎日放送)「爆笑寄席」、「ナイトパンチ」、「パンチDEデート」(以上、関西テレビ)、「仁鶴・きよしのただいま恋愛中」、「プロポーズ大作戦」(以上、朝日放送)、「料理天国」(TBSテレビ)、「スター誕生!」(日本テレビ)などテレビ司会者としての露出が増え、さらに1980年代初頭の漫才ブームでは、人気が頂点に達した。 1986年、「中学校を出た人間が、高校しか出てない人間が、一生懸命やったらどのぐらいのことができるか、どれぐらいのことしかできないか、やってみたいです」と、参議院議員選挙に大阪選挙区から無所属で立候補し、当選した。義母の介護経験から福祉関連に力を入れ、「小さなことからコツコツと」をキャッチフレーズに3期18年間に渡る議員生活を展開した。参議院会派第二院クラブに所属し、福祉関係の充実を政策の中心とし、政治姿勢は全体的に保守系与党寄りであった。 1989年4月にやすしが自身の不祥事により吉本を解雇されたため、コンビは事実上の解散状態となり、以降は参議院議員と並行してソロでのタレント活動に専念する。なお、やすしとは吉本解雇時に「もう組みたくない」と冷たく突き放していたが、1996年1月にやすしが死去するまで定期的に連絡は取り合っていた。 1994年6月の第129回国会・参議院本会議の首班指名投票では、村山富市と海部俊樹に票が分散するなか、当時衆議院議長の土井たか子に唯一の票を投じ、1999年7月の第145回国会・参院本会議の国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)の採決では賛成票を投じた。議員生活を通して政党に所属することはなく会派としての第二院クラブ消滅後は無所属の会、国会改革連絡会に所属。2003年には国会等移転特別委員長に就任した。 2004年1月、同年7月の参議院選挙に立候補をせず、政界から身を引きタレント活動に専念しつつ、引き続き福祉関係の活動を行っていくと発表した。 大平サブローとの「新やすし・きよし」での活動も行っている。 2006年8月29日に日本テレビ系で自身の半生を描いた「ヘレンときよしの物語」が『ドラマコンプレックス』にて放送された。きよし役は実息の忠志。 2015年末に受けた定期健診で初期の前立腺がんと診断され、手術を受けた。 2020年、漫才分野から初の文化功労者に選出された。
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