テレビ司会者として
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1960年代から1980年代にかけ、『11PM』 や、TBS『クイズダービー』、毎日放送・TBS『世界まるごとHOWマッチ』などの司会で名を馳せる。「野球は巨人、司会は巨泉」のキャッチフレーズ通り、競馬や野球、麻雀の評論でも活動し、ニッポン放送『大橋巨泉の責任プロデュース 日曜競馬ニッポン』のメインパーソナリティーも務めた。その後、1990年3月に「56歳になったし、身を引いて司会業は長くやるものではない!」とTBS『ギミア・ぶれいく』以外のテレビ・ラジオのすべてのレギュラー番組を降板し、メディア業界から「セミリタイア」(後述)した。 特に『クイズダービー』内で巨泉は女性出演者に対して、よく下の名前で呼んでいた。例として、長年の「4枠」レギュラーだった竹下景子には「けいこちゃん」、2枠レギュラーだった山崎浩子には「ひろこ」など。ただし、山崎の後の2枠レギュラーだった井森美幸に対しては、「みゆき」よりも上の苗字の「イモリ」で呼ぶことが多かった。また、2015年5月に放送された『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』内の、クイズダービー復活版(巨泉の生前最後の同番組特番司会)でも、当時既に61歳となっていた竹下に対して「けいこちゃん」と呼んでいた。 このようにタレントを呼び捨てにしたり、馴れ馴れしく呼ぶスタイルの司会者は当時では珍しく、タレントを呼び捨てで呼ぶのは、巨泉にとって早大・ジャズ業界・司会業の先輩にあたる小島正雄の「ステージの上にいるものはギャラをもらって商売してるんだ。下で見ている人たちは金を払ってきているお客様だ。売っている人間同士が買ってくださるお客に対して「さん付け」で紹介するなんて、それこそ失礼だと思わないか」という教えを守ったためである。そのため、久米宏・タモリ・ビートたけし・明石家さんま・島田紳助などといった後の大物の司会者たちも、「久米」「タモリ」「たけし」「さんま」「紳助」と呼び捨てしていた。そのため、巨泉の功績を知らない若者からは偉い人と勘違いされたこともある。 番組共演者にニックネームを付けるのを得意としていた。『クイズダービー』では、黒鉄ヒロシには「裏切り狸」、篠沢秀夫には「教授」、はらたいらには「宇宙人」、竹下景子には「三択の女王」、常連ゲストの松崎しげるには「クイズの帝王」とそれぞれ付けた。また、『世界まるごとHOWマッチ』では、石坂浩二を本名の武藤兵吉に因む愛称「兵ちゃん」と呼び、ケント・ギルバートには「ネギルバート」(「値切る」と「ギルバート」の語呂合わせ)、チャック・ウィルソンには「ケチャック」(「ケチ」と「チャック」の語呂合わせ)とそれぞれ付けた。このようによく出演者にニックネームを付けて呼ぶというやり方は、前田武彦に倣ったものであった。 また、同じ『11PM』の司会であった 愛川欽也を筆頭に、財津一郎、玉置宏、藤村俊二、前田憲男ら、同じ1934年生まれの芸能人らと「昭和九年会」を結成した。 『11PM』ではお色気だけでなく硬派の社会ネタ「巨泉の考えるシリーズ」が月曜日を中心に行われており、当時のプロデューサーがたまたまアメリカ合衆国での福祉取材中に見た「レイバー・デイ・テレソン」をヒントに、「考えるシリーズ」内で行われた「世界の福祉」を取り上げた番組からの派生企画として『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』に発展。日テレ開局25周年記念の目玉企画として行われた記念すべき第1回放送(1978年8月26日-8月27日)で、萩本欽一、ピンク・レディーらとともに総合司会を担当している。
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