中山礼子・八多恵太とは? わかりやすく解説

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中山礼子・八多恵太

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/15 05:25 UTC 版)

中山礼子・八多恵太(なかやまれいこ・やたけいた)は、昭和期に活躍した浪曲漫才コンビ。(浪曲ショウ、歌謡浪曲ショウ)。

前身は1962年に中山礼子と中山恵一(のちの八多恵太)と中山修で結成した『ロマンスレイコショウ』(または中山礼子ショウ)。

その後『ロマンスレイコショウ』は1963年に中山修が脱退し浪曲出身の小山幸一郎(後の2代目吉田奈良夫)が加入したが1972年に小山が浪曲に復帰に伴い中山礼子・八多恵太として再出発を図った。コンビ名の通り礼子が漫才の主導権を握り、男勝りのハキハキとした節に特徴があった、なんば花月を中心に吉本興業の主要劇場で活躍した。

礼子・恵太の音曲漫才時代のテーマソングは「ギタァ~ァ 抱えて~ 気楽な~コン~ビ 今日も~元気にぃい~ やぁ~りまぁ~あ~ しょう~」

後に晩年は2人とも病気を患った。

芸はショウ時代は硬い浪曲スタイル、徐々に漫才のしゃべくりが多くなり後年は八多恵太がギターを外していた。

礼子は横山やすし・西川きよしのコンビを結成させた人物。

弟子には伊豆あすか・奄美きょうかの奄美きょうかがいる。

メンバー

九州の生まれ、1943年5月に浪曲の初代京山幸枝の門下になる。長らく浪曲の修行をし、曲師の藤信初子、エレキギター弾きの安井久雄と組んで浪曲をしていたが芽が出ず、ショウに転身。
  • 八多 恵太(やた けいた、1930年 - 1983年)本名は角田恵一。ボケ、エレキギター担当。
兵庫県西脇市の生まれで父は神主、1947年に女剣劇に入団。1949年に歌謡一座に入りギター演奏や司会進行役をやったりしていた。『ロマンスレイコショウ』時代には中山恵一を名乗った。
本業の傍ら岡山で神主をしていた。
芸名は大阪弁の「やたけた」に由来。

『ロマンスレイコショウ』時代のメンバー

  • 中山 修(なかやま おさむ、1934年 - )本名は名倉修。
歌が得意で嘗てはのど自慢等で賞金荒らしをしていた。その後キャバレーでギター演奏等をしていたのを八多恵太にスカウトされショウに加わった。その後1963年に脱退し廃業。
  • 小山 幸一郎(こやま こういちろう、1926年 - )本名は同じ。
1940年に3代目吉田奈良丸に入門し2代目吉田奈良夫を名乗る。翌年に奈良市の新徳席で初舞台。1963年に『ロマンスレイコショウ』に加入。1972年に浪曲に復帰。
  • 小林 境(こばやし さかい、1935年 - )本名は同じ
若葉しげみの名で「若葉トリオ」に参加。

参考文献

  • 「現代上方演芸人名鑑」(1980年、少年社)
  1. ^ 中山礼子”. 新撰 芸能人物事典 明治~平成. コトバンク. 2025年4月15日閲覧。




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