【2002〜2004年】とは? わかりやすく解説

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【2002〜2004年】

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/08 10:06 UTC 版)

GRIFFIN」の記事における「【2002〜2004年】」の解説

前年イベント制作会社M.O.Pと業務提携した事によりライブマネージメントの負担大幅に軽減されバンド02年初頭、大阪ラスティック界の雄クラッシック・チャイムスとの合同クアトロツアーを敢行するニヒリストとの「資金源強奪 2002ツアー前半後半2回にわけてタトゥーショップやグラフィックアーティスト参加し大人数移動公演可能になったのもM.O.P効果一つだ。そして映像制作レーベルLongstoneとタッグ組みバンド初の単独映像作品制作開始するツアー合間、射延にいくつかの課外活動舞い込む日韓W杯開催されタイミングもあって、別冊BURST」のフーリガン特集号で、フットボール・カジャアルズに扮した、射延兄弟やクランプダウンのメンバーと共にモデルとなってフォトセッションが行われた。射延は当時振り返って楽しかったよ」と、比較ライト笑顔答えたが、フットボールカジュアルというワード自体が、全く未知なるもの。恐らくは日本最初にカジュアルなるものを紹介した事実特筆値するだろう。しかし射延は「それは、どうなんでしょうというか、僕は詳しく無いよ。弟(LRF射延博)と、今は亡き大洞カズキ。あの雑誌で、語り紹介してたのは、この2人。僕は割とミーハーで、カッコだけの男やから(笑)」。またCSチャンネルJSKY SPORTS番組制作会社からの依頼を受け(ラグビー番組だったので始め断ったそうだ。)、テーマ楽曲を弟博氏と制作、The Guv'nors名義録音しお茶の間流れた秋にはデタミネイションズとタワーレコードの“NO MUSIC NO LIFE”のポスター撮影兄弟参加。デタミネイションズと共に通天閣を背にポーズ決めたなんといってもバンドハイライト10月開催された「Holiday in The Rising Sun」である。コックニーリジェクツ、ジ・イクスプロイテッド、ザ・ビジネス、アンチノーウェアリーグ、ジ・アディクツ、ザ・ラーカーズ等英国オリジナルパンクバンドが一同に会した一大イベント横浜ベイホール2日間に渡り繰り広げられた。主催LRF射延博補佐務めた岩崎芳久、Doll誌の編集者であった豊嶋佳晃の3人。近親者である射延及びグリフィンも当然協力体制敷きステージ添えた。 『Know The Score』から2年、ほぼ休みなくバンドライブツアー続け音源のリリースラッシュ、また大きなステージに立つ事で、確実に新たなファン獲得していった。バンド来たるビデオ作品用にPV撮影。ポジティブプロダクションと契約を結びニューアルバムの制作取り掛かりこの年終える。 032月遂に初のヒストリー映像作品『The VideoGreatest Story Ever Told』が発売。まず冒頭の新カバー曲PV「Avenues and Alleyways」のハマ具合驚かされる。「我儘を通す為の力がね、足りへんだのよ。けど、02当時我儘勝手やりたい事が出来環境提供してくれる人が、僕の周りには居た凄くラッキーな男でしたよ僕は」 インディペンデント制作したとはいえ協力者存在無しでの完成考えられないという。 4月満を持して果たしオリジナルアルバムとしてはラストになるのだが)5thアルバムCome And Have Another Go』を前述Positive ProductionよりリリースSONY配下のこのレーベルは、原宿本拠地とし、当時ラッパ我リヤ等のヒップホップアーティストも抱えていた。「大手力添えがあったとは思えない。相変わらず自分の脚を使ってアンテナ立ててね。でも以前と違うのは、一緒に歩き回ってくれる人が現れてくれた事。マネージャー江頭善史さん、ポジティブプロ、ディレクター松本さん、広報担当カリブ社の遠近さん、色んな人の力は借りました残念ながらそういった方々潤い与えれなかったという結果なりましたが」未だ心残りだと射延は言う。その反面「帯の文句をねDeterminations高津直由が書いてくれてね」と嬉しそうに話す。当時無念さ秘めてはいるものの、アルバム中身自体ブリットポップストリートロック知恵技量多分に吸収したグリフィン総決算となる力作と言えるまた、直球でコックニーリジェクツに寄せたジャケットデザインは、今まで何度も手掛けているGekiga Daisuke a.k.a 射延博。「哀しみ中でも面白い”事を探して笑おう」と歌う“The Laughter and The Tears”(同時発売されたシングルレコード“Flabby Bastard”のB面にも収録)は、終わってみれば自分達への鎮魂歌とも読み取れるCD盤面には「to the memory of Joe Strummer」と刻まれ前年暮れ急逝した偉大なパンクロッカー捧げられた。 アルバム発売直前には、フジテレビ音楽番組ファクトリー」に出演発売直後には2回目となるNHK「ライブビート」に出演共演大御所アーティスト遠藤賢司6月からショートツアーが始まるが、最終日広島公演矢島脱退する後任には前年ツアーにも参加した数見康雄がすぐさま加入。初の東北ツアー経て12月ファンダンゴ千秋楽迎える。このライブで射延はキャリア史上最高のパフォーマンス出来た自負する初め去来したステージで達成感に射延は「自身の中で終わり予感よぎった。」と後に語った04年、バンドネット上でファンから「グリフィンにやってもらいたい事」を公募。それを実現した企画盤『Nuffin But The Griffin』をマネートークスよりリリース新曲の“Here We Are”はAC/DC meets RUN DMCといった風情で、この頃射延が好んで聴いてヒップホップクラブミュージック影響されナンバー。この曲やスタジオライブ顕著だが、ニュードラマー数見パワー溢れプレイサウンドアルバム通した特徴だ。射延は振り返る「数見康雄のスネアの音と、島田タカシマーシャル直結音の融合は、グリフィン未来を明るくしてくれた。 結果的には、僕のささやかな希望脆くも崩れ去った訳だけど、数見康雄とのツアー笑い絶えなかったし、タカシ生意気なとこが、ちょっとオモロかったり」 そんなメンバーでのツアーは、島根山梨静岡岐阜京都神戸経て大阪長堀クラブサム&ディブ」のイベントゲスト出演ABC朝日放送スタジオライブ収録等、バンド精力的にプロモーションを展開。 そして、秋のスケジュール確認する会議の席で、島田脱退表明数見不参加意思明らかにしたところでバンド解散選択翌年に「Final Chapter」と名付けた解散ツアー茨城東京名古屋大阪で行う事を発表する数見はこの時点脱退しサポート京都のハードコアバンドKimの加老戸が参加島田ツアー参加表明する。そして最後大阪公演にはオリジナルドラマー矢島2年振り参加する事が決定した

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