【2002〜2004年】
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「GRIFFIN」の記事における「【2002〜2004年】」の解説
前年、イベント制作会社M.O.Pと業務提携した事によりライブマネージメントの負担が大幅に軽減されたバンドは02年初頭、大阪ラスティック界の雄クラッシック・チャイムスとの合同クアトロツアーを敢行する。ニヒリストとの「資金源強奪 2002」ツアーは前半後半2回にわけてタトゥーショップやグラフィックアーティストも参加し、大人数の移動公演が可能になったのもM.O.P効果の一つだ。そして映像制作レーベルLongstoneとタッグを組みバンド初の単独映像作品の制作を開始する。 ツアーの合間、射延にいくつかの課外活動が舞い込む。日韓W杯が開催されたタイミングもあって、別冊「BURST」のフーリガン特集号で、フットボール・カジャアルズに扮した、射延兄弟やクランプダウンのメンバーと共にモデルとなってのフォトセッションが行われた。射延は当時を振り返って「楽しかったよ」と、比較的ライトに笑顔で答えたが、フットボールカジュアルというワード自体が、全く未知なるもの。恐らくは、日本で最初にカジュアルなるものを紹介した事実は特筆に値するだろう。しかし射延は「それは、どうなんでしょう。というか、僕は詳しく無いよ。弟(LRF射延博樹)と、今は亡き大洞カズキ。あの雑誌で、語り、紹介してたのは、この2人。僕は割とミーハーで、カッコだけの男やから(笑)」。またCSチャンネル「JSKY SPORTS」番組制作会社からの依頼を受け(ラグビー番組だったので始めは断ったそうだ。)、テーマ楽曲を弟博樹氏と制作、The Guv'nors名義で録音しお茶の間に流れた。秋にはデタミネイションズとタワーレコードの“NO MUSIC NO LIFE”のポスター撮影に兄弟で 参加。デタミネイションズと共に通天閣を背にポーズを決めた。 なんといってもバンドのハイライトは10月に開催された「Holiday in The Rising Sun」である。コックニーリジェクツ、ジ・イクスプロイテッド、ザ・ビジネス、アンチノーウェアリーグ、ジ・アディクツ、ザ・ラーカーズ等英国オリジナルパンクバンドが一同に会した一大イベントは横浜ベイホールで2日間に渡り繰り広げられた。主催はLRF射延博樹と補佐を務めた岩崎芳久、Doll誌の編集者であった豊嶋佳晃の3人。近親者である射延及びグリフィンも当然協力体制を敷き、ステージに華を添えた。 『Know The Score』から2年、ほぼ休みなくバンドはライブツアーを続け、音源のリリースラッシュ、また大きなステージに立つ事で、確実に新たなファンを獲得していった。バンドは来たるビデオ作品用にPVを撮影。ポジティブプロダクションと契約を結びニューアルバムの制作に取り掛かりこの年を終える。 03年2月。遂に初のヒストリー映像作品『The Video〜Greatest Story Ever Told』が発売。まず冒頭の新カバー曲PV「Avenues and Alleyways」のハマり具合に驚かされる。「我儘を通す為の力がね、足りへんだのよ。けど、02年当時、我儘勝手やりたい事が出来る環境を提供してくれる人が、僕の周りには居た。凄くラッキーな男でしたよ僕は」 インディペンデントで制作したとはいえ、協力者の存在無しでの完成は考えられないという。 4月。満を持して(果たしてオリジナルアルバムとしてはラストになるのだが)5thアルバム『Come And Have Another Go』を前述のPositive Productionよりリリース。SONY配下のこのレーベルは、原宿を本拠地とし、当時、ラッパ我リヤ等のヒップホップアーティストも抱えていた。「大手の力添えがあったとは思えない。相変わらず、自分の脚を使って、アンテナ立ててね。でも以前と違うのは、一緒に歩き回ってくれる人が現れてくれた事。マネージャーの江頭善史さん、ポジティブプロ、ディレクターの松本さん、広報担当カリブ社の遠近さん、色んな人の力は借りました。残念ながら、そういった方々に潤いを与えれなかったという結果になりましたが」未だ心残りだと射延は言う。その反面「帯の文句をねDeterminationsの高津直由が書いてくれてね」と嬉しそうに話す。当時の無念さを秘めてはいるものの、アルバムの中身自体はブリットポップ〜ストリートロックの知恵と技量を多分に吸収したグリフィンの総決算となる力作と言える。また、直球でコックニーリジェクツに寄せたジャケットデザインは、今まで何度も手掛けているGekiga Daisuke a.k.a 射延博樹。「哀しみの中でも“面白い”事を探して笑おう」と歌う“The Laughter and The Tears”(同時発売されたシングルレコード“Flabby Bastard”のB面にも収録)は、終わってみれば自分達への鎮魂歌とも読み取れる。CD盤面には「to the memory of Joe Strummer」と刻まれ、前年暮れに急逝した偉大なパンクロッカーに捧げられた。 アルバム発売直前には、フジテレビの音楽番組「ファクトリー」に出演。発売直後には2回目となるNHK「ライブビート」に出演。共演は大御所アーティスト遠藤賢司。6月からショートツアーが始まるが、最終日の広島公演で矢島が脱退する。後任には前年のツアーにも参加した、数見康雄がすぐさま加入。初の東北ツアーを経て、12月ファンダンゴで千秋楽を迎える。このライブで射延はキャリア史上最高のパフォーマンスが出来たと自負する。初めて去来したステージでの達成感に射延は「自身の中で終わりの予感がよぎった。」と後に語った。 04年、バンドはネット上でファンから「グリフィンにやってもらいたい事」を公募。それを実現した企画盤『Nuffin But The Griffin』をマネートークスよりリリース。新曲の“Here We Are”はAC/DC meets RUN DMCといった風情で、この頃射延が好んで聴いてたヒップホップやクラブミュージックに影響されたナンバー。この曲やスタジオライブに顕著だが、ニュードラマー数見のパワー溢れるプレイとサウンドがアルバムを通した特徴だ。射延は振り返る「数見康雄のスネアの音と、島田タカシのマーシャル直結音の融合は、グリフィンの未来を明るくしてくれた。 結果的には、僕のささやかな希望は脆くも崩れ去った訳だけど、数見康雄とのツアーは笑いが絶えなかったし、タカシは生意気なとこが、ちょっとオモロかったり」 そんなメンバーでのツアーは、島根、山梨、静岡、岐阜、京都、神戸を経て、大阪長堀のクラブ「サム&ディブ」のイベントにゲスト出演。 ABC朝日放送のスタジオライブ収録等、バンドは精力的にプロモーションを展開。 そして、秋のスケジュールを確認する会議の席で、島田が脱退を表明、数見も不参加の意思を明らかにしたところでバンドは解散を選択。翌年に「Final Chapter」と名付けた解散ツアーを茨城、東京、名古屋、大阪で行う事を発表する。数見はこの時点で脱退し、サポートに京都のハードコアバンドKimの加老戸が参加、島田はツアー参加を表明する。そして最後の大阪公演にはオリジナルドラマー矢島が2年振りに参加する事が決定した。
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