「緒方筆政」時代
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緒方は1922年(大正11年)7月に帰国すると朝日新聞社幹部に温かく迎えられ、大阪朝日新聞社東京通信部長に就任。以降、1923年(大正12年)4月に東京朝日新聞社整理部長、10月に政治部長、1924年(大正13年)12月に支那部長兼務となり、1925年(大正14年)2月、37歳で東京朝日新聞社編集局長兼政治部長兼支那部長と出世街道を走り、1928年(昭和3年)5月に取締役、村山龍平没後の主筆制採用で1934年(昭和9年)4月に東京朝日新聞社主筆、5月に常務取締役。そして1936年(昭和11年)の二・二六事件までは副社長の下村宏が東京朝日新聞社の責任者だったが、下村が広田内閣組閣に際して退社したため(拓務大臣として入閣しようとしたが、陸軍が拒否)、同年4月、緒方が後任の代表者となった。 さらに二・二六事件後に緒方の構想による筆政一元化で同年5月に朝日新聞社主筆、代表取締役専務取締役となった(専務取締役は1940年8月に辞任)。1940年(昭和15年)8月には編集総長を置いて美土路昌一をこれに当てて東京本社、大阪本社、中部本社(現名古屋本社)、西部本社の4社編集局を統括させ、編集会議を設置して自ら議長となり、討議の上、社論を決め、全責任を主筆が負うことにした。緒方は外部に対して朝日を代表する者と見られ、一切の責任を負う立場になった。 しかし同年5月に社長に就任した村山家の2代目・村山長挙は、主筆の緒方が社長を凌ぐ実力・声望を持ち、多くの政府機関諮問委員を務め、自分には何も回ってこないことを快く思っていなかった。また緒方への権力集中は、朝日新聞社内における反緒方派の台頭を促した。その急先鋒が、東京本社派の緒方に対する大阪本社派の代表取締役専務取締役・西部本社代表の原田譲二と、緒方の出身の政治部・経済部の「硬派」に対する社会部出身の「軟派」で、東京朝日新聞社編集総務から名古屋支社長兼編集局長に転出させられ、さらに傍系の出版局長にさせられたことで反緒方となった常務取締役・鈴木文史朗だった。 政党内閣期の「緒方筆政」においては、緒方自身は政友会寄りの立場だったが、自ら筆を執ることは少なく、社論は各論説委員の見識に任されていた。しかし満州事変、五・一五事件以後は論説委員会議を開いて社論の統一に努めるようになり、親軍的な路線に転換して政党内閣を見限った。それでも二・二六事件で、当時東京・有楽町にあった東京朝日新聞社は中橋基明中尉率いる蹶起軍に襲撃されるが、主筆の緒方は、これに悠々と応対し、蹶起軍は、活字ケースを転覆し、一時的に新聞発行の邪魔をしたが、別室に予備の活字があったので、実害はなく、決起軍は引き上げた。だが二・二六事件後、広田内閣支持を社の方針として決定すると、「緒方筆政」への抵抗を生む結果となり、論説委員の前田多門と関口泰が相次いで退社した。論説委員室の不満は、反緒方派の勢力拡大に拍車をかけた。 近衛文麿のブレーン組織である昭和研究会には、緒方の承認の下、前田多門、佐々弘雄、笠信太郎、尾崎秀実ら中堅・若手論説委員や記者が参加しており、緒方自身も第2次近衛内閣期の新体制準備委員として新体制運動に積極的に関与した。しかしその中から、緒方が可愛がっていた尾崎秀実が1941年(昭和16年)10月にゾルゲ事件で逮捕されたことは、緒方派に大きな打撃を与えた。鈴木文史郎は緒方の主筆辞任を要求したが、結局、緒方に対する責任追及は、主筆はそのままとし、1942年(昭和17年)6月15日に重役としての編集責任担当者を解かれるにとどまった。後任は原田譲二だった。同日、前政治経済部長・田中慎次郎が退社し、緒方派の取締役・東京本社編集局長・野村秀雄も同時に編集局長を解任された。 さらに緒方を窮地に追い込んだのは、修猷館時代からの親友だった中野正剛が1943年(昭和18年)10月、首相・東條英機の意に沿った憲兵隊に身柄拘束され釈放後に自殺したことだった(中野正剛事件)。中野の葬儀委員長を務めた緒方は、東條からの供花を拒否したため、緒方と東條の確執が大阪本社に誇大に伝えられた。 もともと緒方は、現場の新聞記者としては、学生時代から出入りしていた枢密顧問官・三浦梧楼から「大正」の年号をスクープしたことがあるものの、他には「記者として別にどういう特ダネを書いたということもなく、とくに目立つという程のこともなかつた」。しかし緒方は、郷里の関係から頭山満をはじめとする玄洋社の人々と交友が深く、右翼の内部事情まで考慮に入れたデリケートな右翼対策を行うことが出来た。右翼対策は、新聞社にとっては「言論の自由」の発揚に伴う避けることのできない課題であり、右翼との折衝は、論説委員たちの「言論の自由」を保障する地位にあった緒方が、裏側で行わなければならない日常的な業務であった。さらに満州事変期以降は、これに軍部との調整が加わった。しかし軍に対して「顔のきく」存在であったがゆえに、朝日新聞社は緒方を社の代表者とすることに意味があったのに、肝心の緒方が、中野の事件をきっかけとして東條内閣と対立的な関係に陥ってしまったため、朝日は東條との関係を修復するため緒方以外の人物をこれに代える必要に迫られた。 ゾルゲ事件の少し前になる1941年9月17日、日本新聞連盟の理事会は政府側参与理事の吉積正雄より新聞社の資本統合を諮問された。日本の新聞資本を1つにまとめ上げた共同會社案が検討されると会議は紛糾。最終的に理事長の田中都吉へ一任され、田中は共同會社設立を廃した統裁案を政府へ提出した。新聞事業令(1942)につながる田中提案書は理事であった緒方の案を元にしていた。吉積、奥村喜和男と組んでいた古野伊之助は資本統合が難しいとみると緒方に代案を頼み、緒方は社内持ち株、株式の権利行使の制限というテクニカルな問題として自治統制案を起草した。資本と経営の分離の持論は村山との関係が投影されていた。 ゾルゲ事件で追い詰められた緒方は、1943年(昭和18年)夏、営業部門を握って緒方とともに「編集の緒方、営業の石井」として「朝日の両翼」と呼ばれた代表取締役専務取締役・石井光次郎と一緒に、社長・村山長挙と会長・上野精一は社主に退き、緒方を社長とするよう村山社長に申し入れると、村山は原田、鈴木らと反撃に出て同年12月に主筆制を停止して緒方を主筆から解任、実権のない副社長に棚上げした。村山は活動拠点を大阪から東京に移して経営を陣頭指揮し、緒方が務めていた政府機関の諮問委員など対外的な役職も全て取り上げ、自ら引き受けた。緒方は小磯内閣に入閣するため、1944年(昭和19年)7月に退社した。
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