「緒方筆政」時代とは? わかりやすく解説

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「緒方筆政」時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:00 UTC 版)

緒方竹虎」の記事における「「緒方筆政」時代」の解説

緒方1922年大正11年7月帰国する朝日新聞社幹部温かく迎えられ大阪朝日新聞社東京通信部長就任以降1923年大正12年4月東京朝日新聞整理部長、10月政治部長、1924年大正13年12月支那部長兼務となり、1925年大正14年2月37歳東京朝日新聞編集局長政治部長兼支那部長出世街道走り1928年昭和3年5月取締役村山龍平没後主筆採用1934年昭和9年4月東京朝日新聞社主筆、5月常務取締役。そして1936年昭和11年)の二・二六事件までは副社長下村宏東京朝日新聞社の責任者だったが、下村広田内閣組閣に際して退社したため(拓務大臣として入閣しようとしたが、陸軍拒否)、同年4月緒方後任代表者となった。 さらに二・二六事件後緒方構想による筆政一元化同年5月朝日新聞社主筆代表取締役専務取締役となった専務取締役1940年8月辞任)。1940年昭和15年8月には編集総長置いて美土路昌一をこれに当てて東京本社大阪本社中部本社(現名古屋本社)、西部本社の4社編集局統括させ、編集会議設置して自ら議長となり、討議の上、社論を決め、全責任主筆が負うことにした。緒方外部に対して朝日代表する者と見られ一切責任を負う立場になった。 しかし同年5月社長に就任した村山家2代目村山長挙は、主筆緒方社長凌ぐ実力声望持ち多く政府機諮問委員務め自分には何も回ってこないことを快く思っていなかった。また緒方への権力集中は、朝日新聞社内における反緒方派台頭促した。その急先鋒が、東京本社派の緒方対す大阪本社派の代表取締役専務取締役西部本社代表の原田譲二と、緒方出身政治部経済部の「硬派」に対す社会部出身の「軟派」で、東京朝日新聞編集総務から名古屋支社長編集局長転出させられ、さらに傍系出版局長にさせられたことで反緒方となった常務取締役鈴木文史朗だった。 政党内閣期の「緒方筆政」においては緒方自身政友会寄り立場だったが、自ら筆を執ることは少なく、社論は各論委員見識任されていた。しかし満州事変五・一五事件以後論説委員会議開いて社論の統一努めるようになり、親軍的な路線転換して政党内閣を見限った。それでも二・二六事件で、当時東京有楽町にあった東京朝日新聞社は中橋基明中尉率い蹶起軍に襲撃されるが、主筆緒方は、これに悠々と応対し蹶起軍は、活字ケース転覆し一時的に新聞発行の邪魔をしたが、別室予備活字があったので、実害はなく、決起軍引き上げた。だが二・二六事件後広田内閣支持を社の方針として決定すると、「緒方筆政」への抵抗生む結果となり、論説委員前田多門関口泰が相次いで退社した論説委員室の不満は、反緒方派勢力拡大拍車をかけた。 近衛文麿ブレーン組織である昭和研究会には、緒方承認の下、前田多門佐々弘雄笠信太郎尾崎秀実中堅若手論説委員記者参加しており、緒方自身第2次近衛内閣期の新体制準備委員として新体制運動積極的に関与した。しかしその中から、緒方可愛がっていた尾崎秀実1941年昭和16年10月ゾルゲ事件で逮捕されたことは、緒方派大きな打撃与えた鈴木文史郎緒方主筆辞任要求したが、結局緒方対す責任追及は、主筆そのままとし、1942年昭和17年6月15日重役としての編集責任担当者解かれるとどまった後任原田譲二だった。同日、前政治経済部長田中慎次郎退社し緒方派取締役東京本社編集局長野村秀雄同時に編集局長解任された。 さらに緒方窮地追い込んだのは、修猷館時代からの親友だった中野正剛1943年昭和18年10月首相東條英機の意に沿った憲兵隊身柄拘束され釈放後に自殺したことだった(中野正剛事件)。中野葬儀委員長務めた緒方は、東條からの供花拒否したため、緒方東條確執大阪本社誇大に伝えられた。 もともと緒方は、現場新聞記者としては、学生時代から出入りしていた枢密顧問官三浦梧楼から「大正」の年号スクープしたことがあるものの、他には「記者として別にどういう特ダネ書いたということもなく、とくに目立つという程のこともなかつた」。しかし緒方は、郷里の関係から頭山満はじめとする玄洋社人々交友深く右翼内部事情まで考慮入れたデリケートな右翼対策を行うことが出来た右翼対策は、新聞社にとっては「言論の自由」の発揚に伴う避けることのできない課題であり、右翼との折衝は、論説委員たちの「言論の自由」を保障する地位にあった緒方が、裏側で行わなければならない日常的な業務であった。さらに満州事変以降は、これに軍部との調整加わった。しかし軍に対して「顔のきく」存在であったがゆえに、朝日新聞社緒方を社の代表者とすることに意味があったのに、肝心緒方が、中野事件きっかけとして東條内閣対立的な関係に陥ってしまったため、朝日東條との関係を修復するため緒方以外の人物をこれに代える必要に迫られた。 ゾルゲ事件の少し前になる1941年9月17日日本新聞連盟理事会政府参与理事吉積正雄より新聞社資本統合諮問された。日本の新聞資本1つにまとめ上げた共同會社案が検討される会議紛糾最終的に理事長田中都吉一任され田中共同會社設立廃した統裁案を政府提出した新聞事業令(1942)につながる田中提案書理事であった緒方の案を元にしていた。吉積、奥村喜和男組んでいた古野伊之助資本統合難しいとみると緒方代案頼み緒方社内持ち株株式権利行使制限というテクニカル問題として自治統制案を起草した資本と経営分離持論村山との関係が投影されていた。 ゾルゲ事件追い詰められ緒方は、1943年昭和18年)夏、営業部門を握って緒方とともに編集緒方営業石井」として「朝日両翼」と呼ばれた代表取締役専務取締役石井光次郎一緒に社長村山長挙会長上野精一社主退き緒方社長とするよう村山社長に申し入れると、村山原田鈴木らと反撃出て同年12月主筆制を停止して緒方主筆から解任実権のない副社長棚上げした。村山活動拠点大阪から東京移して経営陣頭指揮し、緒方務めていた政府機関の諮問委員など対外的な役職全て取り上げ、自ら引き受けた緒方小磯内閣入閣するため、1944年昭和19年7月退社した

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