道理
道理
「道理」とは、「正しい筋道・筋が通っているさま・道徳的な正しさ・納得できる因果関係など」のことを意味する表現である。わかりやすく言えば「なるべくしてなる」ような事柄を指す言葉である。
「物事の道理」は、原因と帰結が「当然そのようになる」「そうなって然るべきである」といえる関係にあることである。「理(ことわり)」ともいう。一般的な法則や道徳などを指して用いられる。
「無理が通れば道理が引っ込む」は、「筋の通らないことも無理やり押し通せば罷り通る」もしくは「筋の通らないことが罷り通るようになれば、筋の通ったことは通用しなくなる」という意味の諺(ことわざ)である。
「道理で」は、因果関係などの事情が分かって納得した、腑に落ちた、という心情の表現として用いられる表現である。「どうりで」とひらがな表記されることが多い。
どう‐り〔ダウ‐〕【道理】
どうり 【道理】
理
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理 (り、Lĭ)とは、中国哲学の概念。本来、理は文字自身から、璞(あらたま)を磨いて美しい模様を出すことを意味する。そこから「ととのえる」「おさめる」、あるいは「分ける」「すじ目をつける」といった意味が派生する。もと動詞として使われたが、次に「地理」「肌理(きり)」(はだのきめ)などのように、ひろく事物のすじ目も意味するようになる。それが抽象化され、秩序、理法、道理などの意に使われるようになった。
中国哲学における「理」
「理」の語は孔子の言行録とされる『論語』や道家の古典『老子』にはみえず、『孟子』にはわずかに「条理」の語がみえるのみであるが、戦国時代後期にはいってからの『荘子』(道家)・『荀子』(儒家)・『韓非子』(法家)などでは多数確認されている[1]。
墨家・道家・法家の「理」
『墨子』では、道徳的規範の意で使われた。『荘子』では自然の理法としての理があらわれ、天と結びついて天理となったり、「道」と並列的に使われ、「道」が包括的概念であるのに対し、「理」は個別的概念である。『韓非子』では「道」を「法」として展開するとともに、道と理との関係を規定した。そこでは、理が個物化・特殊化の原理であることが明確にされている[1]。
儒家の「理」
理の観念は前漢代の思想書『淮南子』において深められた一方、戦国時代以降漢代までに道家の影響を受けた儒家文献[注釈 1]のなかで「窮理尽性」の説がつくられて、後代に大きな影響をおよぼした[1]。
宋学における理気説(りきせつ、拼音: )では、「理」は事物の法則性をあらわす概念で、「気」も事物を形づくり事物に生命を与えるガス状の物質と考えられた。程頤は、気の現象する世界の奥に、それを秩序づける存在を措定して、これを理と呼び、これを究明すること(窮理(きゅうり))が学問の要諦だとした。
朱子学(程朱学)においては、一物に一理があり、これを「理一分殊」と称した[1]。朱子学の始祖朱熹(朱子)によれば、理は形而上のもの、気は形而下のものであってまったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるとする。また、気が運動性をもち、理は無為であり、気の運動に乗って秩序を与えるとする。
陽明学の始祖として知られる明代の王陽明は、「理は気の条理、気は理の運用」という理気一体観を表明している。
仏教における「理」
仏教における理は、道理・義理・条理を意味し、治める、正すなどの意味で用いる。
仏教では、現実世界をどのように認識するかということがもっとも大切なことであり、その現実を現実のままに認識することを事と言い、それを理論づけたり言葉に乗せることを理と言う。その意味で、仏典はすべて理であり、釈迦がさとった内容は「事」である。その意味で、「不立文字」は事の内容は言葉にできないことを説明している。
脚注
注釈
参照
参考文献
- 大島晃「理」小学館編『日本大百科全書』(スーパーニッポニカProfessional Win版)小学館、2004年2月。ISBN 4099067459
関連項目
道理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/15 08:49 UTC 版)
初出:『オール讀物』2009年11月号 岩淵啓吾は妻と喧嘩した日、8年前に交際していた野宮朔美に連絡をとってみた。当然変わっているだろうと思っていた電話番号は変わっておらず、久々に会うことができた2人は楽しい時間を過ごす。それからも度々会い続けたが、「世界の道理」「道理をわかっていないと間違った方向に向かう」「道理をわかっていないときは間違った人といろいろあった」など、次第に啓吾は朔美の言動がおかしいことに気付く。朔美と別れた時、そのきっかけとなったヨガ講師がよく言っていた「道理」というものの受け売りを話したのは確かに自分だ。しかし朔美はその言葉や思考をどんどん自分で突き詰め、洗脳されていったようであった。 岩淵 啓吾(いわぶち けいご) 朔美には「イワくん」と呼ばれている。 岩淵 静江(いわぶち しずえ) 友人が企画した「三十路合コン」で会って2年程付き合い、啓吾と5年前に結婚した妻。啓吾は36歳、静江34歳だった。喧嘩は日常茶飯事。川崎の分譲マンションに住んでいる。 野宮 朔美(のみや さくみ) 啓吾と6年間交際していたが、啓吾が30歳の時にヨガ講師に恋をしたため別れを告げられ、8年前に別れた。気遣いができ、相手がかすかにでも後悔するようなことを決して言わない。未婚。文房具メーカー勤務。啓吾より2つ年下で40歳近いにも関わらず20代でも通るような容姿をしている。 ヨガ講師 啓吾が朔美と別れてまで追いかけた「運命の人」。切れ長の目と薄い唇で一般的に美人の部類に入る顔立ちをしている。 田中 深雪(たなか みゆき) 啓吾の不倫相手。経理部。30代前半。飲み会に誘われ、酔った勢いでその日のうちに関係をもってしまった。
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「道理」の例文・使い方・用例・文例
- 彼は道理を知らない
- 道理をわきまえる
- その修正論者がそのような行動をとるのは道理に適っている。
- あなたの言っている事は道理に合わない。
- この件はまったく道理の通らない話です。
- それは全く道理の通らない話です。
- それは日本ではまったく道理の通らない内容です。
- 彼の説明は道理に適っている。
- 無理も通れば道理となる。
- 無理が通れば道理が引っ込む。
- 彼女は何でも自分の思い道理にしないときがすまない。
- 彼はそのことについて自分の子供に道理を説いた。
- 彼の意見は道理にかなっている。
- 彼にはものの道理がわかっていない。
- 道理をわきまえた人なら、だれがそんな気が変な男の言うことに耳を貸すものか。
- 道理にかなったことなら何でもする。
- 道理で彼らが彼女の申し出を断ったわけだ。
- 道理で、君が喜ぶわけだ。
- 君の提案は公正で道理にかなったものではないという理由で、賛成しかねます。
- どうしてお前は道理に従おうとしないのか。
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