試験飛行
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「D-21 (航空機)」の記事における「試験飛行」の解説
M-21とD-21は、1964年12月22日から分離を伴わない(captive)試験飛行を開始し、1965年にかけて続けられた。D-12のエアインテーク(吸気口)および排気口にかぶせられた空力カバーは最初の数回の試験の後に取り除かれたが、それというのはマッハ3で飛行しながらM-21にもD-21にも被害を与えずにカバーを投棄することができないからであった。カバーの取り付けを止めたことによって増大した抗力は、D-21のラムジェットエンジンを第3のエンジンとして用いることによって克服された。これに伴い、分離までの間はM-21の燃料タンクからD-21のラムジェットへと燃料が供給されることとなった。 M-21からのD-21の最初の発射は、1966年3月5日に成功裏に実施された。切り離しは成功であったが、D-21はM-21の背面上方で数秒間(乗員のひとりによれば「2時間」にも思えた)留まってしまった。ケリー・ジョンソンは、これについて「我々が関わったあらゆるプロジェクト、私が取り組んだあらゆる航空機の中で、もっとも危険な機動だった」と述べた。D-21は、数百キロメートル飛行した後に墜落してしまった。結果として、CIAと空軍はやはりこの計画へ乗り気でないままであった。ジョンソンは空軍の関係者らと会談し、プロジェクトを運用側の要求にもっと近づけるために何ができるかを検討した。様々な案が出たが、その中には、D-21をB-52爆撃機から発射し、ラムジェットが作動可能な速度までの加速のために固体ロケットブースターを用いる、というジョンソンの提案も含まれていた。 2度目の発射は1966年4月27日に成功し、D-21は1,200海里(2,200km)の飛行の後システムの故障により行方不明となったものの、作戦高度の9万フィート(27,400m)およびM3.3の速度に到達した。これは非常に満足すべき進捗と受け取られた。試験の成功は、政府内のプログラム後援者の関心を呼び覚まし、同月の終わりまでに、さらに15機のD-21購入契約が結ばれた。3度目の成功は1966年6月16日で、電装系の不具合のためにハッチが投下されなかったものの、D-21はミッションを完遂した。 しかしながら、1ヵ月後の7月30日に行われた4度目かつ最後の発射は、惨事に終わった。分離の直後にD-21がM-21の垂直尾翼に激突し、両機を破損させた。M-21の乗員2人は射出により安全に脱出し、海面へ着水した。操縦士のビル・パークは生還したが、LCOのレイ・トリックは気密服への浸水のために溺死した。この結果、ジョンソンは直ちにM-21からの発射を断念した。しかしながら、彼はB-52からの発射方式は依然として実際的であり、D-21計画は続行されるだろうと感じていた。 改修型の無人機はD-21B(D-21Aは存在しない)と命名され、1966年半ば時点で発注されていたD-21全機がB型として完成した。2機のB-52Hが、それぞれ2機ずつのD-21を搭載できるように改造され、ハウンド・ドッグ巡航ミサイル用の翼下パイロンがより大型のパイロンに換装された。フライトデッキ(コックピット)後方には、2ヶ所の独立したLCO ステーションが、指令・遠隔計測システムとともに増設された。これら追加のシステムとは、航法上の誤差を低減するために正確な座標からの発射を保証する天測航法システムと、発射まで無人機を一定温度に保つための温度管理システムであった。B-52はD-21Bと通信することができ、ミッション開始から(分離から)10分間に渡って接続の維持が可能な、改良型の遠隔操作リンクを備えていた。 ブースターは固体燃料ロケットで、全長13.5m、重量約6tで、無人機の機体自体よりも大きかった。ブースター尾部には、直進性維持のために小型の垂直安定板が下向きに取り付けられていたが、地上で地面とのクリアランス(間隔)を確保するために折りたたむことができた。ブースターは約1分半燃焼し、12,380kgf(121.4kN)の推力を発生する。 1967年9月に始まった初期の試験は、1969年7月まで続いた。最初の発射は、1967年9月28日に試みられたが、無人機が突然B-52のパイロンから落下してしまった。ブースターは燃焼したものの、D-21Bは一直線に地上へと向かった。ジョンソンはこのハプニングについて「大変恥ずかしい」と述べた。1967年11月-1968年1月までに、さらに3回の発射が行われたが、いずれも成功しなかった。そこでジョンソンは自ら率いる開発チームに対し、次の試射に移る前に徹底的な見直しを行うよう命じた。次の発射は1968年4月30日で、またもや失敗であった。ロッキードの技術者たちはいまいちど製図板に立ち戻ったが、これは1968年6月16日の完璧な飛行により報われることとなった。D-21Bは全行程にわたって所定の高度とコースで飛行し、ハッチの回収にも成功した(ただし、カメラは載せていなかった)。 とはいえ、トラブルは終わってはいなかった。次の2回の発射は失敗し、その次の12月の飛行は成功した。明けて1969年2月、ハワイ近海で行われた、実際の作戦飛行を模擬した発射は失敗したが、これに続く5月および7月の飛行はともに成功であった。
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「試験飛行」の例文・使い方・用例・文例
- 試験飛行
- 試験飛行.
- 雇われて実験中の飛行機の試験飛行を行うパイロット
- 航空機の試験飛行をすること
- 試験飛行をする操縦士
- 2002年と2003年に南太平洋とスウェーデンで試験飛行を行う予定である。
- バイオ燃料で試験飛行実施
- 1月30日,バイオ燃料を使った航空機の試験飛行が日本航空(JAL)によって行われた。
- エンジンを4基搭載した航空機が試験飛行に使用された。
- 試験飛行に使用されたバイオ燃料は,人の食物として育てられたトウモロコシなどの植物から作られたものではなかった。
- 米国にあるホンダの子会社,ホンダエアクラフトカンパニーが昨年12月に同社初の小型ジェット機,ホンダジェットの試験飛行を成功させたのだ。
- その飛行は2500キロに及ぶ試験飛行の第2区間だった。
- フェイスブックは年内に米国で試験飛行を行う予定だ。
- 三菱リージョナルジェットが初の試験飛行
- 日本初の国産ジェット旅客機「三菱リージョナルジェット」(MRJ)が11月11日に初の試験飛行を行った。
- MRJは2011年に最初の試験飛行を行うことになっていたが,その飛行は5度延期された。
- MRJはついに名古屋空港から初の試験飛行を行い,約90分間飛んだ。
- この試験飛行の機長を務めた安(やす)村(むら)佳(よし)之(ゆき)さんは,飛行はとても安定していたと述べた。
- MRJが商業飛行を始めるのに十分安全であると認められるまで,計2500時間の試験飛行が日本と米国で行われる。
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