試験飛行から終戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 07:04 UTC 版)
「キ83 (航空機)」の記事における「試験飛行から終戦まで」の解説
1944年11月より各務原飛行場で審査が開始された。本機の安定性や操縦性は優れており操縦に要する力は一〇〇式司偵よりも軽く済んだ。速度については、計画値だった高度9,000mにおける704km/hには届かなかったが、それでも高度8,000mで686.2km/hを記録、また高度5,000mでは655km/hを発揮した。また、日本機には珍しく排気タービンによるエンジントラブルに悩まされる事が少なかったと伝えられている。 ただし欠点として、エンジンの振動が気になることと、尾部もまた振動して安定を損なう傾向があることが指摘された。尾部振動については取り敢えず水平尾翼に支柱を付けることで対応し、増加試作機において抜本的な改良を行うこととした。 続いて1945年4月までには2号機から4号機が完成したが、昭和東南海地震と空襲の激化がそれ以上の生産を阻んだ。このうち2号機は、3月の試験飛行時に風防・天蓋が破壊されて飛散する事故を起こして墜落し、テスト・パイロットが殉職する事故を起こして失われた。また、3号機と4号機は6月に行われた各務原飛行場への空襲によって破壊、焼失した。 終戦時には松本飛行場(長野県)に疎開して試験を続けていた1号機のみが残ったが、進駐してきた連合国軍の1国であるアメリカ軍に現地で接収される。1号機はそのまま松本飛行場で性能試験を受け、アメリカ軍機用のハイオクタン価燃料を使用し、高度7,000mにおいて計画値を大幅に上回る最大速度762km/hを記録した。この記録が間違いなければ、1943年に高速研究機キ78「研三」が記録した699.9km/hやアメリカ軍最速のP-51H(同高度で759km/h)を超えるものであるが、記録自体は戦後の混乱に紛れた。なお研三の記録は高度3,527mでのもので、P-51は単発機であるなど条件が異なる。機体は後に技術的検査のためにアメリカ本土に輸送されたが、同地における性能試験の記録は伝わっておらず、後に焼却処分になっている。 もし戦時中に実戦配備されていれば、アメリカ海軍のF7Fとよく似た性格の双発高速機になっただろうと考えられる。実際そのシルエットは非常に似通っており、細長の胴体に翼下の強力な双発エンジンという発想を同じくしていた。
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