MSXと冷戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 09:12 UTC 版)
冷戦時代、西側諸国ではコンピューターを含む電子機器の輸出を対共産圏輸出統制委員会(ココム)で制限しており、ソビエト連邦を中心とする共産圏の国々では16ビット以上の高性能コンピューターを西側から輸入することが出来なかった。そのため、規制対象外とされていた8ビット機を大量に輸入し、またコピーして使用していた。機種は用途に応じてよく選別されていた。 これらの中にはMSXも含まれており、特にロシアやキューバでは国家の教育プログラムで大々的に導入された。その拡張性や互換性などが評価された結果、学校教育のみならず各分野で応用された。教育用には独自に簡易ネットワークシステムまで構築して利用していた例もある。 ソ連では1985年に学校へのコンピュータ導入プロジェクト「комплекс учебной вычислительной техники」、略称:КУВТ(KUVT)が開始され、ヤマハのMSX機をベースとする教育用ネットワークシステムが「YAMAHA KUVT」として各学校に構築された。ヤマハの機種を用いたシステムとしては、YIS 805R(先生側)とYIS 503IIR(生徒側)が採用されたКУВТと、YIS 128R(先生側)とYIS 503IIIR(生徒側)が採用されたКУВТ2が存在する。それぞれ、単純に輸入したものではなく、ロシア語キーボードを搭載したソ連向け専用モデルである。1986年度のКУВТ-86では国産機のБК-0010Шが採用されるなど、すぐに輸入機から国産機に切り替わったため、YISの採用数は1万5千台程度とされる。教育映画の『Поехал поезд в Бульзибар』(1986年)では、教育の一環として教師の監督の元『イーアルカンフー』や『けっきょく南極大冒険』を楽しそうにプレイする子供たちの姿が描かれている。ソ連ではMSX機は一般には販売されておらず、何らかのルートで入手するにしてもソビエト時代はパソコンは一般人には購入できないほど高価だったため、当時のソビエト連邦の人民が触れることのできたMSX機は、基本的に学校にあるこのヤマハの教育用パソコンであり、ソ連ではMSXは「YAMAHA」(Ямаха)の愛称で呼ばれる。ただし導入状況は学校によるので、MSXを全然知らない人も多い。また、1980年代後半以降には、ヤマハ以外にも大宇電子や東芝など、数は少ないながら日本や韓国から複数のメーカのMSX機が教育用として輸入され、かなり普及した。ソ連の国産ハードにも影響を与え、ПК8000はMSX-BASIC互換のインタプリタを搭載している。ちなみに、Wikipediaのサーバーで使われているnginxを後に制作するИгорь Сысоев(1970年、カザフ・ソビエト社会主義共和国生まれ)は、 nginxのユーザー会のために2014年に来日した際に、学校で日本の「YAMAHA」に出会ったことがきっかけでコンピュータサイエンスの道に進んだことを公言しており、Wikipediaのページを見ることができるのも旧ソ連における教育プログラム「YAMAHA KUVT」の成果である。 ソ連の軌道宇宙船ミールでも、MSX2規格の動画編集機であるソニーHB-G900APと見られる機材 が設置されており、1990年12月のTBS宇宙プロジェクト『日本人初!宇宙へ』にて撮影されたビデオの編集に使用されていたことがスポンサーであるソニーの技術情報誌の特集記事として掲載された。なおHB-G900シリーズは、日本ではソニー製MSXの最上位機種として「HitBit PRO」の愛称で1986年に発売されたSONY HB-F900シリーズの欧州版である。「AVクリエイター」の愛称で販売された周辺機器のHBI-F900と組み合わせることで、家庭でスーパーインポーズやモザイク処理など「プロ並み」のビデオ編集ができることがウリであり、HB-F900の本体価格が148,000円、「AVクリエイター」も64,800円とビデオ編集機としては安価なことから、日本でも結婚式や運動会などの用途で重宝された(なおソニーは業務用ビデオ編集機として「SMCシリーズ」と言う別のラインがあり、業務用や宇宙開発用としてMSX機を使うことは本来は想定されていない)。 音楽制作ではYAMAHA CX-5が良く使われ(アルバムのジャケット写真やライナーの使用機材紹介でよく載っている)、アンドレイ・ロジオノフ&ボリスチホミーロフはソ連初のテクノアルバム『パルス1』(1985年)を制作している。これは当時のソ連ではテレビのエアロビクス番組がとても流行っており、体操用の音楽としてロシア文化省の要請により制作されたものである。当時のソ連はアフガン侵攻による経済制裁中であったが、ヤマハがロシア政府の教育プログラム「YAMAHA KUVT」向けにMSXの特注モデルを制作して輸出するなど、ソ連と日本の通商は比較的活発であり、YAMAHA CX-5やRoland TR-909など、西側とそれほど変わらない日本製の機材が使用されていることがアルバムのライナーで紹介されている。アルバム『512 kbytes』(1987年)のジャケットでは、DTMやアートワークの制作に使ったYAMAHA YIS 805Rや、EIZO製のモニターなどの周辺機器が紹介されている(КУВТで導入されたものと同じ機材)。アンドレイ・ロジオノフはMSX用ゲームも制作してリリースしているが、こちらも教育用としてロシア文化省と防衛省の要請によって作られたもので、パッケージにはその旨の記載がある。また、リズムマシンYAMAHA RX15の制御にCX-5を使用した『Танцы на битом стекле』(1989)で知られるАлексея Вишни や、CX-5に搭載されたFM音源モジュールYAMAHA SFG-05を活用したНовая Коллекцияなども、MSXを活用したソ連のテクノミュージシャンとしてよく知られている。ただし、当時のソ連にテクノやDTMが存在したことが西側諸国に知られるのは、ソ連崩壊後のことである。 ソ連崩壊後にパソコンやゲーム機の海賊版メーカーが乱立した時期には、MSX-DOSと一部に互換性のあるOSを搭載したAmstrad CPCベースのMSX互換機Алеста(1993年)や、MSX-DOSと一部に互換性のあるOSを搭載したZX Spectrum互換機のATMターボ2(1993年)など、かなり特殊なハードもリリースされている。なお、ソ連時代はMSX機は一般には販売されていないので、MSX機の所有者は存在しないはずだが、YAMAHA製のキーボードやリズムマシンと一緒にYAMAHAのMSX機を使っているテクノミュージシャン以外に一般人の中にもなぜか正規のYAMAHA製MSX機を所有している熱狂的なファンもおり、2000年代以降にも熱狂的なファンによる互換機が制作されたり、海賊版ハードの乱立時期に製造されたカオスな製品をFPGAを利用してさらにカオスに進化させたハードがリリースされたりしている。 キューバでは東芝とパナソニックのMSXが1985年に学校教育で採用され、"Intelligent keyboards"の名称で呼ばれた。ただしパソコンの一般への販売は禁止されていた。
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