開校までの経緯
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「長岡市立阪之上小学校」の記事における「開校までの経緯」の解説
幕末の当時勃発していた北越戦争のひとつ「戊辰戦争」で被災したことが、学校設立のきっかけになったとされる。 戦争で被災した長岡藩は、親交のあった三根山藩(のち嶺岡藩、現在の新潟市西蒲区)から百俵の食用米を見舞いとして贈られた。 しかし、長岡藩で大参事に就いていた小林虎三郎は「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育に充てれば明日の一万、百万俵となる」と周囲の武士に愉し、百俵の米を学校設立の資金としたい小林の意向で全て売却した。 これによって生じた資金をもとに、本校の原型となる国漢学校が寺子屋として開学した。
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開校までの経緯
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「栃木県立特別支援学校宇都宮青葉高等学園」の記事における「開校までの経緯」の解説
2007年(平成19年)4月、学校教育法の改正により、従来の盲学校、聾学校、養護学校は特別支援学校に一本化された。栃木県においては、1989年(平成元年)から2006年(平成18年)までの間に、県立の盲学校、聾学校、養護学校の在籍者数が1420人から2113人に増えており、中でも知的障害のある児童生徒数については884人から1667人と、ほぼ倍増の勢いであった。さらに特別支援学校の高等部については、中学校の特別支援学級から進学する者が増加する傾向にあり、高等部入学者の半数を超えるようになっていた。このような状況に対し、栃木県教育委員会(以下「県教育委員会」)は、特別教室を普通教室に転用するなどして収容人数を増やす一方、2007年には県立南那須養護学校 (現在の栃木県立南那須特別支援学校)に高等部を設置して知的障害のある生徒の受け皿を増やすなどの対応を行った。 一方、当時の栃木県には障害者雇用に理解のある企業が少なく、民間企業における障害者の雇用率は全国的に見ても低い状況にあり、障害のある生徒に対する就労支援の充実も大きな課題となっていた。 こうした中、2008年(平成20年)11月に行われた県知事選挙では、軽度知的障害のある生徒が職業に関する専門的な知識・技能などを学ぶ高等特別支援学校の整備を公約の一つに掲げた現職の福田富一が再当選した。同年12月の栃木県議会の定例会では、高等特別支援学校の早期整備を望む議員の質問に対し、就任二期目を迎えた福田知事はあらためて整備推進の意志を表明している。その後、県や県教育委員会は県立特別支援学校の在り方について検討を重ね、2010年度(平成22年度)には、栃木県重点戦略「新とちぎ元気プラン」及び「とちぎ教育振興ビジョン(三期計画)」に、高等特別支援学校の整備の推進が明記された。なお、この間、2009年(平成21年)より、栃木県は県財政の健全化をめざす「とちぎ未来開拓プログラム」に着手し、予算措置を伴う新規事業については当面見合わせる方針をとったが、高等特別支援学校の整備についてはその対象とはならなかった。 こうして県立特別支援学校の整備に向けた動きは進められたが、すでに関東地方において高等特別支援学校を設置していない都道府県は栃木県のみとなっており、また、2010年12月の段階においても開校の目標年次が確定しておらず、県議会では、整備に向けたスピード感のなさを指摘する声も挙がった。 県教育委員会は2011年(平成23年)6月27日に高等特別支援学校整備検討委員会を設置し、同年度末までに整備基本計画を策定するための検討を開始した。同年11月28日に行われた第4回の高等特別支援学校整備検討委員会では教育方針など整備基本計画の素案が示されたが、そこでは建設予定地に関する言及はなかった。ところが、その翌日にあたる11月29日に、宇都宮市の中心部に位置する県立宇都宮工業高等学校の跡地が高等特別支援学校の建設予定地であることが報道で明らかになり、翌11月30日には、宇都宮市が新築移転を計画していた宇都宮市立一条中学校が高等特別支援学校と同じ敷地に併設されることも報道された。これらの情報は整備検討委員にとって寝耳に水であった。栃木県議会文教警察委員会委員長であり高等特別支援学校整備検討委員会委員でもあった早川尚秀議員は、12月2日の県議会定例会でこのことについて質問し、福田知事は答弁において、高等特別支援学校を宇都宮工業高等学校跡地に建設する計画であり、一条中学校との併設について宇都宮市と協議することを正式に発表した。 12月6日の宇都宮市議会では、佐藤栄一市長が、校舎配置やグラウンドの活用、さらには中学校と特別支援学校との交流についても踏み込んで答弁した。翌12月7日に行われた県議会の文教警察委員会では、県教育委員会が高等特別支援学校整備基本計画の素案を議員に示して説明したが、一条中学校との併設の件には全く触れらず、このことを問題視した石坂真一議員の追及に対し、須藤稔教育長が不手際を陳謝する一幕があった。 2012年(平成24年)3月、県教育委員会は高等特別支援学校整備基本計画を策定し、平成26年度から平成27年度にかけて建築工事を行い平成28年4月開校、というスケジュールが示された。翌4月には特別支援教育室に高等特別支援学校整備担当を設置した。約4 haある宇都宮工業高校の跡地利用については、2012年(平成24年)1月17日に旧宇都宮工業高校敷地の北側2.2 haを一条中に、南側の1.8 haを高等特別支援学校とすることでまとまった。 2014年(平成26年)3月に宇都宮工業高校の跡地で校舎建設工事が着工し、2015年(平成27年)6月2日に公募の結果、校名が「栃木県立特別支援学校宇都宮青葉高等学園」に決定し、校章と校歌の制作が県立高校の生徒に依頼された。2016年(平成28年)4月、宇都宮青葉高等学園が開校した。生徒は県内全域から募集したが、1期生に安足からの入学者はいなかった。
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開校までの経緯
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「新宿区立四谷小学校」の記事における「開校までの経緯」の解説
新宿区は児童数減少による区内小学校の小規模化に伴い、統廃合によるより良い教育環境の実現を果たすべく、小学校の適正配置に取組み始めた。1999年度から四谷第一小学校、四谷第三小学校、四谷第四小学校の3校を対象校として進め、まず第一段階として2002年に四谷第一小学校が閉校し、同校児童が四谷第三小学校に転学した。2003年12月24日に四谷第四小学校PTAから統合合意文書が提出され、教育委員会は3校を統合して新校を建設することを2004年1月6日に、同5月7日に新校建設地を旧四谷第一小学校跡地とし、校名を「四谷小学校」とすることを決定した。2005年10月31日に旧四谷第一小学校跡地で起工式、2007年3月20日に落成式が行われた。
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