設計と生産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 09:45 UTC 版)
A300-600STは、主翼やエンジン、胴体下半分がA300-600Rと共通で、上半分の胴体が新規設計された。新しい胴体部は極めて太い直径の円筒形であり、大型コンポーネントを搭載する貨物室にあたる。機体前方から貨物を積み下ろしできるように、貨物室最前部には上開きの扉が設置され、コックピットが胴体の下側に移された。コックピットのレイアウトや装備品などは、A300-600Rのものが踏襲された。特異な形を持つことから、コンピュータ解析や模型を用いた風洞実験が繰り返され、空力面のほか空港でのハンドリング面でも最適な形状となるよう検討された。 A300-600STは新造機として生産され、ベース機同様に国際分業体制がとられた。A300から流用する部分はベース機と同じ分担とされ、A300-600ST専用のコンポーネントも各国で分担されて製造された。参加各国の主な分担は以下の通りだった。 フランス - 機首部分、コックピット、中央翼、エンジンパイロン イギリス - 貨物扉、降着装置、主翼 ドイツ - 貨物扉と機首部分のつなぎ目、貨物室後部、垂直尾翼、前後部胴体 スペイン - 貨物室前部、水平尾翼 オランダ - 主翼動翼 A300-600STの製造は1993年から始まり、各パーツはスーパーグッピーでトゥールーズに集められ、1994年から最終組み立てが開始された。A300-600STの1号機は1994年9月13日に初飛行し、335時間におよぶ飛行試験を経て1995年10月25日に型式証明を取得した。同年にエアバス社へ引き渡しされ、2号機から5号機についても、表のとおり型式証明の取得と納入が進められた。 最終組み立てが始まった頃、A300-600STは非公式に「スーパーフリッパー」という愛称で呼ばれていた。これは、テレビドラマ「わんぱくフリッパー」に登場するイルカの名前に由来するという説がある。その後、1994年6月23日、A300-600STの1号機の完成発表と同時に「ベルーガ」という愛称が発表された。ベルーガはSATICによって付けられた名前で、エアバス社本体は当初はこの愛称を気に入っていなかったが、広く浸透したことから後に認めて使用するようになった。 表: A300-600STの初飛行日、証明交付日と納入日号機初飛行日証明交付日納入日1号機 (MSN 655 F-GSTA) 1994年9月13日 1995年10月25日 1995年10月25日 2号機 (MSN 751 F-GSTB) 1996年3月26日 1996年4月22日 1996年4月22日 3号機 (MSN 765 F-GSTC) 1997年4月21日 1997年5月7日 1997年5月7日 4号機 (MSN 776 F-GSTD) 1998年6月9日 1998年7月30日 1998年12月18日 5号機 (MSN 796 F-GSTF) 2000年12月12日 2001年1月5日 2001年1月5日 出典:EASA 2017, p. 4、青木 2010, pp. 78–79、石川 2014, p. 78 A300-600STの生産数は5機で、そのうちの1機は当初はオプションとされたが、最終的に5機全てが生産された。
※この「設計と生産」の解説は、「エアバス ベルーガ」の解説の一部です。
「設計と生産」を含む「エアバス ベルーガ」の記事については、「エアバス ベルーガ」の概要を参照ください。
設計と生産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 09:18 UTC 版)
イギリス軍のMk.I戦車が初めて実戦に投入されたのは1916年9月15日、ソンム会戦の事であった。Mk.I戦車は局地的には効果を発揮しドイツ軍には衝撃を持って迎えられたが、結果としては膠着状態を打破することは出来ず、協商国の戦線が11キロメートル余り前進するにとどまった。 しかしドイツではこれを受けてドイツ軍最高司令部 (OHL) が戦時省運輸担当第7課 (Abteilung 7 Verkehrswesen des Allgemeinen Kriegsdepartements im Preußischen Kriegsministerium) に同種の戦闘車両の開発を命じた。要求性能は、あらゆる地形に適応したうえで、前部・尾部に1門ずつの主砲と、側面に機関銃を装備して、時速10 km - 12 km で移動し、幅1.5メートルの塹壕を突破できる能力である。これを満たす車輌として、重量30トンの車体に80 - 100馬力のエンジンを搭載することとされた。非武装の輸送型では4トンの積載能力が求められた。 1916年11月13日に、ダイムラー社など有力企業数社と、ドイツ陸軍将校によって構成された交通技術試験委員会 (Verkehrstechnische Prüfungskommission (VPK))および戦時省のあいだに、後に A7V となる全地形走行車両 (Geländespanzerwagen) の開発に関する契約が結ばれ、同年12月22日には開発予算が認められた。これにより、研究段階に止まっていたドイツの装甲戦闘車輛開発が具体化に動き出した。設計責任者はヨーゼフ・フォルマー技師とされた。 開発にあたり、アメリカのホルト社(現在のキャタピラー社)のドイツ国内代理人であるヘール・シュタイナーがアドバイザーとして呼ばれた。またフォルマー技師の提案により、コスト低減と開発を急ぐためにブダペストでライセンス生産されていたホルト社の農業用トラクターが購入された。研究はこれを分解調査するところから始まった。ホルトトラクターは先んじて戦車開発を行っていたイギリスやフランスも参考にしていたものであり、この車輌の構造そのままでは不整地走行能力が不足していたため、大型化とサスペンションの改良が行われた。 1917年1月に最初のプロトタイプが完成したが、機密を維持するために開発部門の頭文字を取った A7V がそのまま名称となった。これには、ヨーゼフ・フォルマー(Joseph Vollmer)からVの字が取られたとも言われている。1917年4月にはシャーシのみの状態で走行試験を開始した。 1917年5月14日にドイツ国内マインツ近くの演習場で木製のボディを被せた試作車輛のデモンストレーションを見学したドイツ軍最高司令部は、さらに10輌の追加生産を命じた。これら20輌の A7V でもって、2個戦車隊(各5輌)を編成して残る10輌は予備とすることを決定した。 生産型には尾部の砲は搭載されず、木製の試作車輛にあった尾部の超壕用ガイド(ルノー FT-17の尾部と同様)も取り付けられなかった。その後も繰り返しテストが行われたが、エンジンの出力不足や冷却などは根本的な解決に至らなかったようだ。 基本となる生産はベルリンのダイムラー社が行い、装甲板はエッセンのクルップ社とステフェンス&ネーレ社、ギアボックスはフランクフルトのアドラー社が担当した。最初の車体は1917年9月に完成し、武装なども施された車輌が納入されたのは1917年10月1日であった。1917年12月1日には、戦車型(Sturmpanzerwagen)10輌と、同じシャーシを利用した装甲のない兵員・弾薬輸送車型 (Überlandwagen) 90輌の計100輌が発注された。これを1918年に予定されていた春季攻勢に間に合わせるように求められていたが、ダイムラー社の生産能力は月産5輌程度で、参謀本部もUボートや飛行機の生産に資源や工業力を注力させていたため、休戦までに生産されたのは、戦車型が試作もあわせて22輌(524号車はA7V-Uの試作に流用されたため実際は21輌)、兵員・弾薬輸送車型が30輌程度にとどまった。
※この「設計と生産」の解説は、「A7V」の解説の一部です。
「設計と生産」を含む「A7V」の記事については、「A7V」の概要を参照ください。
- 設計と生産のページへのリンク