記念遺産
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「フレデリック・ディーリアス」の記事における「記念遺産」の解説
ディーリアスは死の直前、将来自分の作品が演奏されることで得られる著作権料は、若い作曲家の作品を紹介する年次演奏会のために使われること、という内容の補足を遺書に書き加えていた。ディーリアスはこの追加条項が法的効力を発揮する以前にこの世を去った。フェンビーによると、これに伴ってビーチャムが未亡人のイェルカを説得し、演奏会の案を破棄して著作権料をディーリアスの主要作品の編纂と録音に充てるよう、彼女自身の遺書に書かせたのだという。1935年のイェルカの死後に設立されたディーリアス基金は、この業務を監督するためのものであった。イェルカの遺言で定められたとおり、基金の運営はその大部分をビーチャムが行った。1961年にビーチャムが死去すると基金の役員を補助するための相談役が任命され、1979年からは音楽家慈善基金に運営が引き継がれた。基金の活動目標は当初より拡大されており、長年にわたりディーリアスと同時代の他の作曲家の音楽も推進できるようになっている。基金は2010年のロイヤル・フィルハーモニック協会の若手音楽家作曲賞の、共同出資者となっている。 1962年、ブラッドフォードで開催されたディーリアス生誕100年祭に参加した、ディーリアスの熱狂的なファンがディーリアス協会を設立し、フェンビーが初代代表となった。協会は約400人の会員を擁し、基金とは独立してはいるものの近い形で活動を行っている。協会のおおよその目的は、ディーリアスの生涯と作品に関する知識構築を増進し、作品の演奏や録音を奨励することである。2004年には若い音楽家がディーリアスの音楽を学び、演奏することを促すために、協会は毎年のディーリアス賞大会を設立して一等には賞金1,000ポンドを贈っている。1984年にはディーリアス基金がスポンサーとなり、リーズのグランド・シアターにおいてディーリアス没後50周年を記念した「村のロメオとジュリエット」の記念碑的上演が、オペラ・ノース(英語版)によって行われた。 1968年にBBCテレビでケン・ラッセル監督の映画「Song of Summer」が放映され、イギリスにおいては一般の人々の間にもディーリアスの生涯への関心が高まった。映画はディーリアスとフェンビーが協力関係にあった時期を題材としており、フェンビーも脚本の執筆に加わった。マックス・アドリアン(英語版)がディーリアス役、クリストファー・ゲイブルがフェンビー役、そしてモーリーン・プライアー(英語版)がイェルカ役をそれぞれ演じた。 アメリカでは、ソラノ・グローヴに小さなディーリアス記念碑が建てられている。フロリダのディーリアス組合は、長年にわたってジャクソンビルで彼の誕生日を祝う祭りを毎年開催している。ジャクソンビル大学では、音楽科が毎年ディーリアス作曲賞を選定している。2012年2月にイギリスの国有郵便会社ロイヤルメールが発行した、「傑出したイギリス人たち」の切手セットでは、ディーリアスが10人の中の1人として選ばれた。 ビーチャムは、ディーリアスの革新者としての役割を強調している。「ディーリアスの最良の点が、彼が古典的伝統を無視して独自の形式を創造した楽曲群において見出されることは、疑いようがない。」フェンビーもこれに続いて、次のように述べている。「真に重要な人物というのは、我々の生命をより美しくするような、新たな方法を発見する人である。フレデリック・ディーリアスはそのような人物だった。」パーマーの記すところでは、ディーリアスの本当の遺産は聴衆に創造的な衝動を催させ、生命の奇跡に対する気付きを与える彼の音楽の能力である。パーマーはジョージ・エリオットの詩「The Choir Invisible」を引き合いに出しつつ、こう結論付けている。「フレデリック・ディーリアス(中略)は、その人生と作品によって世界を住みよい場所に変える、そして文字通りの意味で間違いなく『目に見えぬ音楽隊 'The Choir Invisible'/その者の音楽は世界の喜びである』として作られた、本当の芸術家の仲間の一員である。」
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記念遺産
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リンドは「ジェニー・リンド=ゴルトシュミット」の名前でロンドンのウェストミンスター寺院、ポエッツ・コーナーに記念されている。1894年4月20日の除幕式典の列席者の中には、ゴルトシュミット、王室の者、サリヴァン、ジョージ・グローヴ、リンドの慈善事業の助けを受けた者の代表などがいた。また、ロンドン、ケンジントンのボルトンズ(The Boltons)にはリンドを記念した銘板が掲げられており、またSW7、ロンドンのオールド・ブロンプトン通り189(Old Brompton)にはブルー・プラークが1909年に掲げられた。 音楽、映画、そして紙幣においてもリンドを記念したものがある。1996年と2006年の両年発行のスウェーデンの50クローナ紙幣は表にリンドの肖像を描いたものである。彼女を称え、題材とした芸術作品も多く存在する。アントン・ヴァーラーシュタインは1850年頃に「ジェニー・リンド・ポルカ」を作曲している。1930年のハリウッドの映画「忘れじの面影 A Lady's Morals」ではグレース・ムーアがリンドを、ウォーレス・ビアリーがバーナムを演じた。1941年にはイルゼ・ヴェルナーがドイツ語の映画「スウェーデンのナイチンゲール Schwedische Nachtigall」で主役のリンドを演じ、ヨアヒム・ゴットシャルクがアンデルセンを演じた。2001年にはアンデルセンの生涯を描いた映画「おとぎ話の私の人生 My Life as a Fairytale」でフローラ・モンゴメリがリンド役となった。2005年1月にはエルヴィス・コステロが、リンドを題材としたオペラ「秘密のアリア The Secret Arias」をアンデルセンの詩を引用しながら作曲中であると発表した。2010年にはBBCのテレビドキュメンタリー「ショパン - その音楽の影なる女性たち Chopin – The Women Behind the Music」で、リンドがショパンに「非常に愛情を持って接した」ショパン晩年について議論がなされた。 多くの物や場所がリンドにちなんだ名前を付けられている。カナダのジェニー・リンド島、機関車ジェニー・リンド号や大型帆船のUSSナイチンゲールなどが挙げられる。オーストラリアには彼女の名誉を称えて「ジェニー・リンド」と名付けられた帆船があったが、1857年にクイーンズランド州沿岸の入り江で沈没し、以後その入り江はジェニー・リンド・クリークと呼ばれるようになった。 イギリスでは、ゴルトシュミットがノリッジにリンドの想い出として寄付を行った小児診療所が、ノーフォーク・ノリッジ大学病院のジェニー・リンド・ホスピタルとなって現在まで残っている.。同市にはジェニー・リンド公園もある。ウォチェスター大学のシティ・キャンパスにはリンドの名を冠したチャペルがある。イースト・サセックスのヘイスティングス旧市街地では、彼女にちなんで名づけられたホテルとパブがある。ヘレフォード・カウンティ病院にはジェニー・リンドの名を付けた精神科病棟がある。 アメリカではリンドを記念した名づけられた通りがアーカンソー州フォートスミス、マサチューセッツ州のニューベッドフォードと北イーストン(英語版)、ペンシルベニア州マキースポート(英語版)、ニュージャージー州スタンホープ(英語版)にある。そしてカリフォルニア州ではゴールドラッシュの町の名前がジェニーリンド(英語版)となっている。1948年からは、コネチカット州ブリッジポートで6月と7月に行われるバーナム音楽祭で彼女の記念賞が贈られている。国中からの選考を通じて選ばれたソプラノ歌手に、音楽祭がジェニー・リンド賞を授与するのである。スウェーデンでも同様の受賞者がスウェーデン王立音楽アカデミーとストックホルム市民公園・コミュニティーセンターによって選ばれ、アメリカの音楽祭を訪れる。2人の受賞者は共に演奏会を開き、7月には次にアメリカの受賞者がスウェーデンに渡り同地で同様の共同コンサートツアーをして回る伝統である[要出典]。
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