県立湘南海岸公園の建設とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 県立湘南海岸公園の建設の意味・解説 

県立湘南海岸公園の建設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/13 08:03 UTC 版)

湘南海岸公園 (藤沢市)」の記事における「県立湘南海岸公園の建設」の解説

敗戦翌年、県の湘南砂防事務所鵠沼再開され砂防林復旧取り組んだ1947年4月1日鎌倉郡片瀬町藤沢市編入合併する。これにより藤沢市は、片瀬江の島抱えた観光都市発展することになると共に片瀬鵠沼地区一体化した観光開発図られる基盤ができた。 1953年県道横須賀大磯線湘南遊歩道路。横須賀市-大磯町)は、2級国道134号昇格した1954年7月1日日活資本江の島水族館開館し5月には神奈川県湘南海岸公園都市計画事業決定して戦後における湘南海岸公園開発本格化する。 神奈川県湘南海岸砂防事務所1955年公園整備事業加えた湘南海岸整備事務所」に発展させて、1957年11月特許事業方式民間施設活用)の県立湘南海岸公園計画告示した告示以前から水族館国道隔てた海側に江ノ島水族館マリンランド1957年5月3日)、児童海水プール1957年6月16日)、そのプール改修した江の島海獣動物園1964年5月25日)を開設一方鉄道会社による江ノ電駐車センター東急レストハウス小田急ビーチハウスいずれも1956年)、江の島へるすせんたー1957年)、小田急シーサイドパレス(1958年)などが特許事業として続々建てられ斬新なデザイン競い合ったかくして、県による「太陽の広場建設最後に1960年7月13日境川から引地川の間に18.1haの県立湘南海岸公園完成するのである。 それに先立ち江ノ島鎌倉観光は、1958年12月1日西方にしかた)駅を湘南海岸公園駅改称した1961年7月8日公園内観光センター開館同年7月20日には引地川河口右岸の旧藤沢市プール経営引き継いで全面的に改良し、「小田急鵠沼プールガーデン」が開場する以後この施設数回模様替え加えながら存続したが、2000年営業終了し翌年から「鵠沼海浜公園スケートパークとなった。この場所は1961年設置され藤沢市鵠沼海浜公園であり、神奈川県湘南海岸公園からは外れる。 戦前片瀬海水浴場東浜江の島海水浴場営業組合)に限られ西浜地曳き網漁場であったが、戦後西浜にも海水浴場進展し片瀬藤沢市合併したこともあり、1956年片瀬西浜・鵠沼海水浴場統合した江の島海水浴場協同組合」が創立された。 同海水浴場警備員たちは、1961年から赤十字救急法救急員資格取得したライフセーバー監視救助活動始め1963年に「湘南ライフガードクラブ」(現在名西浜サーフライフセービングクラブ」)として組織化日本初ライフガード組織として先進地のオーストラリアハワイからノウハウ学び活動するようになった湘南海岸公園建設期までは、自動車砂浜乗り入れることも可能であった朝鮮戦争山場を越すと、神奈川県北部米軍施設からジープ乗り付け米兵が、バーベキューサーフィンを楽しむ姿が見られるようになった。彼らをまねて木製サーフボード自作する地元少年もいた。1961年7月湘南学園生の佐賀亜光松田章が、厚木基地海軍パイロット中尉トム星条旗新聞記者海洋学者ガース・A・ジェーンズ全米トランポリンチャンピオンのフィル・ドリップスらから技術学んでロングボードを操るようになり、これが日本におけるサーファー最初といわれる1962年、彼らの中から佐賀兄弟中心とするメンバー日本初のサーファークラブ「サーフィングシャークス」を組織した。彼らはほぼ同時期に活動始めた千葉県鴨川サーファーなどに声をかけて競技会開き、これが1965年全国組織日本サーフィン連盟NSA)に発展するのである1950年代には石原慎太郎芥川賞小説太陽の季節映画化され太陽族を生み、1960年代加山雄三若大将シリーズ加瀬邦彦率いザ・ワイルドワンズ1970年代にかけてはブレッド&バター尾崎紀世彦、さらに桑田佳祐率いサザンオールスターズ1980年代テミヤンといった湘南育ち若者たち生み出す湘南サウンド」は、全国青年から圧倒的な支持受けた1959年3月5日藤沢市米国フロリダ州マイアミビーチ市との姉妹都市提携案が議決され藤沢市は「東洋のマイアミビーチ」として売り出すことになる。 1960年5月東急レストハウス会場第1回輸入車ショウ当時の名称は「外車ショー」)が開催され折から高度経済成長期に伴う「マイカーブーム」は、首都圏から手頃な距離を持つ日帰りドライブ先として湘南海岸を選ばせた。1964年の東京オリンピックヨット競技会場江の島選ばれ自動車橋江の島大橋」(神奈川県道305号江の島線建設により、島内自動車渡れようになったことも魅力加えることになった湘南海岸公園完成以来1964年の東京オリンピック挟んで数年間が年間来客数が500万人を超す観光客数ピーク時代で、「日本一海水浴場」の名をほしいままにした。 砂防林植栽公園整備一環として進められたが、1965年には相次ぐ台風異常乾燥による潮風、飛砂の害が加わり枯れ始め砂防林荒廃国道より海側はほぼ全滅の状態になった。 これに追い打ちをかけるように、1969年には湘南海岸大腸菌騒動起こり観光客数100万人台まで激減した1969年3月 - 引地川国道134号鵠沼」の下流側並行して「みどり」(自転車)が完成茅ヶ崎市柳島までの湘南海岸・砂浜のみち全通する。

※この「県立湘南海岸公園の建設」の解説は、「湘南海岸公園 (藤沢市)」の解説の一部です。
「県立湘南海岸公園の建設」を含む「湘南海岸公園 (藤沢市)」の記事については、「湘南海岸公園 (藤沢市)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「県立湘南海岸公園の建設」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「県立湘南海岸公園の建設」の関連用語

県立湘南海岸公園の建設のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



県立湘南海岸公園の建設のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの湘南海岸公園 (藤沢市) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS