県立湘南海岸公園の建設
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「湘南海岸公園 (藤沢市)」の記事における「県立湘南海岸公園の建設」の解説
敗戦の翌年、県の湘南砂防事務所が鵠沼で再開され、砂防林の復旧に取り組んだ。 1947年4月1日、鎌倉郡片瀬町が藤沢市に編入合併する。これにより藤沢市は、片瀬・江の島を抱えた観光都市に発展することになると共に、片瀬・鵠沼地区を一体化した観光開発が図られる基盤ができた。 1953年、県道横須賀大磯線(湘南遊歩道路。横須賀市-大磯町)は、2級国道134号に昇格した。 1954年7月1日、日活資本の江の島水族館が開館し、5月には神奈川県が湘南海岸公園を都市計画事業に決定して、戦後における湘南海岸公園開発が本格化する。 神奈川県は湘南海岸砂防事務所を1955年に公園整備事業を加えた「湘南海岸整備事務所」に発展させて、1957年11月に特許事業方式(民間施設活用)の県立湘南海岸公園計画を告示した。 告示以前から水族館は国道を隔てた海側に江ノ島水族館マリンランド(1957年5月3日)、児童海水プール(1957年6月16日)、そのプールを改修した江の島海獣動物園(1964年5月25日)を開設、一方、鉄道会社による江ノ電駐車センター、東急レストハウス、小田急ビーチハウス(いずれも1956年)、江の島へるすせんたー(1957年)、小田急シーサイドパレス(1958年)などが特許事業として続々と建てられ、斬新なデザインを競い合った。 かくして、県による「太陽の広場」建設を最後に、1960年7月13日、境川から引地川の間に18.1haの県立湘南海岸公園が完成するのである。 それに先立ち、江ノ島鎌倉観光は、1958年12月1日に西方(にしかた)駅を湘南海岸公園駅に改称した。 1961年7月8日、公園内に観光センターが開館、同年7月20日には引地川河口右岸の旧藤沢市営プールの経営を引き継いで全面的に改良し、「小田急鵠沼プールガーデン」が開場する。以後この施設は数回の模様替えを加えながら存続したが、2000年に営業を終了し、翌年から「鵠沼海浜公園スケートパーク」となった。この場所は1961年に設置された藤沢市の鵠沼海浜公園であり、神奈川県の湘南海岸公園からは外れる。 戦前、片瀬の海水浴場は東浜(江の島海水浴場営業組合)に限られ、西浜は地曳き網の漁場であったが、戦後は西浜にも海水浴場が進展し、片瀬が藤沢市に合併したこともあり、1956年、片瀬西浜・鵠沼海水浴場を統合した「江の島海水浴場協同組合」が創立された。 同海水浴場の警備員たちは、1961年から赤十字救急法救急員の資格を取得したライフセーバーが監視・救助活動を始め、1963年に「湘南ライフガードクラブ」(現在名「西浜サーフライフセービングクラブ」)として組織化、日本初のライフガード組織として先進地のオーストラリアやハワイからノウハウを学び、活動するようになった。 湘南海岸公園建設期までは、自動車を砂浜に乗り入れることも可能であった。朝鮮戦争が山場を越すと、神奈川県北部の米軍施設からジープを乗り付けた米兵が、バーベキューやサーフィンを楽しむ姿が見られるようになった。彼らをまねて木製サーフボードを自作する地元の少年もいた。1961年7月、湘南学園生の佐賀亜光と松田章が、厚木基地の海軍パイロットで中尉のトム、星条旗新聞の記者で海洋学者のガース・A・ジェーンズ、全米トランポリンチャンピオンのフィル・ドリップスらから技術を学んでロングボードを操るようになり、これが日本におけるサーファーの最初だといわれる。1962年、彼らの中から佐賀兄弟を中心とするメンバーは日本初のサーファークラブ「サーフィングシャークス」を組織した。彼らはほぼ同時期に活動を始めた千葉県鴨川のサーファーなどに声をかけて競技会を開き、これが1965年全国組織日本サーフィン連盟(NSA)に発展するのである。 1950年代には石原慎太郎の芥川賞小説太陽の季節が映画化されて太陽族を生み、1960年代の加山雄三の若大将シリーズや加瀬邦彦率いるザ・ワイルドワンズ、1970年代にかけてはブレッド&バター、尾崎紀世彦、さらに桑田佳祐率いるサザンオールスターズ、1980年代のテミヤンといった湘南育ちの若者たちが生み出す「湘南サウンド」は、全国の青年から圧倒的な支持を受けた。 1959年3月5日、藤沢市と米国フロリダ州マイアミビーチ市との姉妹都市提携案が議決され、藤沢市は「東洋のマイアミビーチ」として売り出すことになる。 1960年5月、東急レストハウスを会場に第1回輸入車ショウ(当時の名称は「外車ショー」)が開催され、折からの高度経済成長期に伴う「マイカーブーム」は、首都圏から手頃な距離を持つ日帰りドライブ先として湘南海岸を選ばせた。1964年の東京オリンピックのヨット競技会場に江の島が選ばれ、自動車橋「江の島大橋」(神奈川県道305号江の島線)建設により、島内へ自動車で渡れるようになったことも魅力を加えることになった。 湘南海岸公園完成以来、1964年の東京オリンピックを挟んで数年間が年間来客数が500万人を超す観光客数のピークの時代で、「日本一の海水浴場」の名をほしいままにした。 砂防林の植栽も公園整備の一環として進められたが、1965年には相次ぐ台風と異常乾燥による潮風、飛砂の害が加わり、松が枯れ始め、砂防林が荒廃、国道より海側はほぼ全滅の状態になった。 これに追い打ちをかけるように、1969年には湘南海岸で大腸菌騒動が起こり、観光客数は100万人台まで激減した。 1969年3月 - 引地川国道134号「鵠沼橋」の下流側に並行して「みどり橋」(自転車橋)が完成。茅ヶ崎市柳島までの湘南海岸・砂浜のみちが全通する。
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