公園計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 08:02 UTC 版)
官庁集中計画においては日比谷ヶ原にも官庁の建設が予定されたが、元々日比谷入江だったため地盤が悪く、大掛かりな建物の建設には不向きと判断された。同年11月、内務省東京市区改正委員会において古市公威と芳野世経により公園地としての利用が提案され、翌年には日比谷公園を第一とする第四十九までの公園の整備を盛り込んだ市区改正が告示された。 日本の公園制度は1873年(明治6年)の太政官布達第16号に遡るが、上野公園・芝公園など寺社境内の公園化が中心で、日本人で一から新しく公園を造るのは全く初めての試みだった。1893年(明治26年)に東京市が軍から払下げを受け、告示第六号により跡地は正式に日比谷公園と命名された。 同年に東京市により設計案が出されたが内部検討に終わり、更に1894年(明治27年)6月の日本園芸会が小平義近による甲乙案、田中芳男による丙案という三案を提出したが、採用されなかった。1897年(明治30年)に公園改良取調委員会が設置され、1898年(明治31年)の長岡安平による案が、1899年(明治32年)8月の辰野金吾による案が検討されたが、いずれも採用されなかった。 1900年(明治33年)に東京市吏員5名が案を提出するが、またしても不採用だった。その後1901年(明治34年)、辰野金吾により本多静六が推挙され、石黒忠悳、福羽逸人、小沢圭次郎等とともに日比谷公園造園委員会が設置され、結局、造園委員でもありドイツ留学を終えたばかりの本多を中心として立案することとなった。本多は留学経験を生かしてドイツ式庭園を目指した一方で、江戸城に連なっていた堀を埋め立てる際に一部を心字池として埋め残し、日本的な要素も残した。心字池ではかつての石垣の一部を今でも見ることができる。ついにこの案が採用となり、本郷高徳により図面が起こされ、1902年(明治35年)4月に着工。翌年6月1日に仮開園を迎えた。
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