公園計画の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 08:58 UTC 版)
当時千葉県木更津高校教諭で井川町小今戸出身の森田喜郎は、大学時代から日本古典文学の研究に打ち込み、大学院では上田秋成の研究を深め、1970年(昭和45年)1月に紀伊國屋書店から『上田秋成』を出版した。東京私学会館で出版記念会が行われたのに続き、郷里でも出版記念会の話が持ち上がった。その年、井川町海老沢出身で同輩の伊藤孝之助が、日本美術院の春の院展で入選をしたので、両者の「出版記念並びに入選祝賀会」を同年8月14日に同級生の有志が主催し、井川荘で開催した。森田はもともと桜に興味を持っていた。それは、以前の京都での講演で日本花の会とつながりが出来ていたからである。京都の「上田秋成文学研究会」の会長は京都大学理学部の植物分類学者廣江美之助であった。廣江の興味は現存の植物だけでなく、日本古典文学の植物にまで及び、古今を通しての桜の権威でもあった。森田喜郎の書籍『上田秋成』の出版が京都の同会に注目され、森田は京都の研究会から招かれ講演を済ませた後の懇談で廣江が植物学者として日本花の会と関係していることを知り、話が桜に及んだ。そこで森田は「桜を活用して何とか郷里に新しい心のふるさとを作れないものか」と考えた。8月17日、森田喜郎と親友の伊藤孝之助は湖東病院に入院中の井川町役場職員の斎藤肇を訪ね、小公園ができそうな場所を尋ねた。斎藤からの連絡で、井川町は村議会でこの計画を諮り、ぜひ井川村として受けるべきだということになった。村長の鷲谷喜兵衛は最後の仕事となるだろうとしてその計画を受けた。その時、すでに井川小学校の校舎周辺の林地を公園化しようとする計画があり、それは森田喜郎の話と相乗りできるタイミングであった。 1971年(昭和46年)に天皇・皇后の訪欧が実現し、これを記念して世界平和協会の「世界平和のための親善使節団」が欧州を訪問することになり、日本の国花である桜を携えることになった。桜の種類は廣江美之助の提唱で、苗木は日本花の会の全面的な協力で供給されることになり、その使節団は「桜の使節団」と呼ばれた。井川町が計画する桜公園には廣江美之助のはからいで「桜の使節団」が持参した苗木と全く同様のものが選ばれた。1971年(昭和46年)の11月末に廣江美之助は現地を視察した。その夜森岳温泉で村長の鷲谷喜兵衛は廣江美之助に以前から気にしていた、公園の名称についての意見を伺った。廣江美之助は「日本国花園」が良いでしょうと答えた。鷲谷喜兵衛はうなずきながら「園」を「苑」にしたらどうかとした。井川町では日本国花苑計画を急ぎ策定して、県庁に陳情した。県庁では「いこいの森造成計画」が推進中であり、この事業と相乗りする形で計画が進められた。
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