〒799-1361 愛媛県西条市広江
呼松
広江
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/04 01:55 UTC 版)
福田東部にあり、南北に山に挟まれ東西に細長い形をして地区。種松山の南西麓で、鴨ヶ辻山野北麓にあたる。東へ向かい緩やかな傾斜地となっており、東に児島の郷内地区と隣接。西端は開けて平地となっており、福田や古新田の南部や東塚に隣接している。明治初期まで児島郡広江村(ひろえそん)と称した。 近世中期(嘉永5年)に福田新田(現在の北畝や東塚など)が干拓されるまでは、広江西部は水島灘に面していた。地名もこのとき地形に由来するとされる。 清田八幡神社の元和元年の上葺再興棟札に広江村の名がある。 江戸時代は天城領に属し、『吉備温故秘録』には、児島郡広江村、海辺山寄、田畑27町8反、家77軒、男女691人、池11ヶ所、船7艘とある。 『正保郷帳』では石高393石余り。『備陽記』では、享保6年の記録として田畑27町8反余り、池1ヶ所、家数77軒、人口691人、小漁船7軒とある。文化年間の『岡山藩領手鑑』によると、石高393石余り、直高587石余り、天城池田領とあり、田17町6反余り、池11ヶ所、樋14ヶ所、石橋1ヶ所、家数116軒、人口799人、神子家1軒、寺1院(持名院)、牛49頭、左官3軒、大工・木挽各2軒、鍛冶屋・桶屋・紺屋・傘張各1軒と記されている。 また、『備陽記』には猟浦とあって唐網でイナ・シクチなどを獲り、夏にハマグリを獲り砂に埋め節季に取りだし諸方へ売り出したある。ハマグリは夏の内に近隣の連島で獲れたものを買い、磯に2~300石ほど埋め置いて寒中に取りだし、俵にして上方や近国へ正月用に売り出していたともされている。浜辺は東風のときに14~5艘の船が出船した。また、浜辺は天城領の殺生留場で、文政6年に赤崎村の者が鶴を拾い帰ったために、当人と村役人が追い込みになった。また、『撮要録』には同2年に呼松村との境界論争があった記録が残る。 明治11年、広江・呼松の2村が合併し呼松村を新設、同22年6月1日に村制を実施を経て、同37年4月に呼松・福田・福田新田の3村が合併し、新しい福田村(のち福田町)を成立する。 水島工業地帯の活況による水島の市街化に伴い、高度経済成長期以降、当地の南北の山麓を中心に大規模な社宅や新興住宅団地が造成され人口が激増。また地区を東西に、岡山・早島・茶屋町方面と水島中心部を結ぶ幹線道路(国道430号・県道62号)が通過、西端部を南北に倉敷中心部と児島方面を結ぶ幹線道路(国道430号、県道274号)が通過、両大型幹線道路が地区西端部で交差(広江1丁目交差点)、また郷内との境界付近には瀬戸大橋開通に伴う水島インターチェンジの造成などし、広江は交通の要衝となり、西部を中心に道路沿いには郊外型店舗も多く見えるようなった。 『備前記』に、平安時代末期の藤戸の戦いの際、当時の当地西部の海浜から平行盛が乗船し水島へ落ち延びたという伝承がある。 史跡として、明治17年8月25日に発生した大海嘯により死亡した福田村民650人余りの慰霊碑である千人塚が当地2丁目の丘陵にある。
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