演劇、舞踏作品での仕事とは? わかりやすく解説

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演劇、舞踏作品での仕事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/03 14:23 UTC 版)

今井重幸」の記事における「演劇、舞踏作品での仕事」の解説

早くから演劇踊りという表現形態に強い創造意欲掻き立てられていた今井は、純音楽作曲並行して舞台演出演劇音楽作曲活動にも進出していった。すべての芸術要素結集して新し総合芸術運動舞台で表現したい、という欲望からだった。その際舞台演出家構成作家として名乗ったのが、「まんじ敏幸」という別名だった。当時芸術ジャンル綿密に分けられていたことから、作曲家舞台演出等に関わる無用な誤解を受ける事例があった。それを避けるため、また日本芸術界セクショナリズム主義者説明するのが億劫となって1963年昭和38年)、フランツ・カフカ原作の『Der Prozess審判)』の演出からこの別名を用いたこのような活動通じて今井パントマイムヨネヤマ・ママコモダン・ダンス三条万里子舞踏家暗黒舞踏家)・振付師土方巽指導し世に紹介したまた、石井漠、ノイエタンツ、江口隆哉宮操子流れ汲み土方とともに舞踏界の発展寄与し100歳超えて第一線活躍続けた大野一雄江口隆哉宮操子舞踊団助教師をし、舞踊団若手創作活動従事していた頃、作曲家今井出会いたがいに共感して舞台作品共作した)や、本場スペインでのフラメンコ修行からスタートし、全く新しい独自の境地を切り拓いた創作舞踊家・長ヤス子などとも今井企画・演出プロデューサーとして舞台創作活動を共にした。 1952年昭和27年)、19歳。『Dance Tripique Bactèries(「細菌三章)』(二瓶博子舞踊団)の舞踊音楽作曲1954年昭和29年)、21歳。『独楽』(佐藤祐子舞踊団)の舞踊音楽作曲。『BalletPinocchio”(ピノキオ)』(横山はるひバレエ団)の舞踊音楽作曲。『蜘蛛の糸』(江口隆哉宮操子舞踊団)の舞踊音楽作曲1955年昭和30年)、22歳。『Dance Suite“Oedipus”(オイディプス)』(伏屋順二舞踊団)の舞踊音楽作曲この年今井舞台・舞踊界で尖端的な活動精力的に行なっている新進芸術家たちと組んで現代舞台芸術協会」を設立した舞踊・音楽演劇という境界超越する総合的芸術運動起こし流派系統縛られずに大同団結目指すことを理念とし、新進舞踊家育成発表の場眼下据えたグループである。そこを拠点とし、従来枠組みとらわれない前衛的新趣向富んだ舞台芸術創作没頭していく。 実は今井1950年昭和25年)頃から、豊川稲荷豊川稲荷東京別院)の近くにあった赤坂芸術村通称赤坂村”)へ、江田和雄劇団人間座の創立者茗荷谷林泉寺住職)と一緒によく通っていた。敗戦直後赤坂界隈には、進駐軍相手娼婦宿があった。その名残色濃い地に、さまざまな若い芸術家たちが集まっていた。その中には河原温荒川修作黒木不具人、藤原有司男、池田龍雄金森馨ら、前衛意識の強い若い画家たちや、フランス文学栗田勇美術評論家のヨシダ・ヨシエ、奈良原一高などもいた。今井は彼らと交流することにより、前衛的な新分野創造惹かれていったようだ。現代舞台芸術協会の設立は、その時から培ってきた意欲具体的に表した行動だった。 1956年昭和31年)、23歳。『シジフォスの神話』(坂口智恵舞踊団)の舞踊音楽作曲1957年昭和32年)、24歳。『Unicorn一角獣)』(大野一雄花柳照奈)の舞踊音楽作曲。『夜に捨てる』(ヨネヤマ・ママコ)の舞踊音楽作曲1958年昭和33年)、25歳。『埴輪の舞』(堤世王己、土方巽)の企画・プロデュース舞踊音楽作曲。『ハンチキキ』(現代舞台芸術協会)の企画・構成演出プロデュース1959年昭和34年)、26歳。『Topeng(仮面)』(現代舞台芸術協会)の舞踊音楽作曲1960年昭和35年)、27歳。『Nepenthesネペンテス)』(三条万里子&青年バレエ団)の企画・構成演出。『Quatre Chistoux(結晶体)』(現代舞台芸術協会)の舞踊音楽作曲。『式典舞楽』(三条万里子バレエ団)の舞踊音楽作曲1962年昭和37年)、29歳。『Three Phases from ZEN(禅に基く三章)』(三条万里子バレエ団)の舞踊音楽作曲。『二十世紀哀歌(5部作)』(簱野恵美舞踊団)の舞踊音楽作曲1963年昭和38年)、30歳。『第五次元(4部作)』(旗野恵美舞踊団)の舞踊音楽作曲1964年昭和39年)、31歳。約1年間にわたるニューヨーク修行終え帰国。さっそく劇団アルス・ノーヴァ立ち上げて座長就任し、同劇団のみならず東京芸術座劇団青俳劇団人間座、ソシエテ・デ・ザール、劇団薔薇座文学座などが公演する演劇劇音楽精力的に書いていく。同年演出家・まんじ敏幸として『Der Prozess審判)』(劇団アルス・ノーヴァ / フランツ・カフカ原作)、『授業』(劇団アルス・ノーヴァ / ウジェーヌ・イヨネスコ原作)の日本初演を手がける1964年昭和39年)、31歳。『三つの断章』(三条万里子バレエ団)の舞踊音楽作曲。『La Carenture(ラ・カランチュール)』(三条万里子バレエ団)の舞踊音楽作曲。『Les Negres(レ・ネグル)』(三条万里子バレエ団)の舞踊音楽作曲1965年昭和40年)、32歳。『新アラビアン・ナイト』(劇団こまどりバレエ部)の舞踊音楽作曲。『挽歌』(バレエグループ「フェニックス」)の舞踊音楽作曲1968年昭和43年)、35歳。『恋は魔術師』(ラファエル・デ・コルドパ舞踊団)の舞踊音楽編曲指揮構成・演出1969年昭和44年)、36歳さまざまな分野前衛アングラ芸術発信地として、その後伝説となった渋谷ジァン・ジァン」の創設関わる。のちに「渋谷ジァン・ジァン」の社長となる高嶋進が劇団アルス・ノーヴァ演劇公演を観に来た際、今井彼にさまざまなアドバイスをした。それに大い共鳴した高嶋は、アングラ活動拠点としての渋谷ジァン・ジァン」を作ったとされる1970年昭和45年)、37歳。『化弧』(江川明とバレエ・バロン)の舞踊音楽作曲1974年昭和49年)、41歳。『ピノッキアーナの変容』(辻美紀バレエ団)の舞踊音楽作曲1980年昭和55年)、47歳。『娘道成寺』(長嶺ヤス子 / 芸術祭大賞受賞)を企画・プロデュース1981年昭和56年)、48歳『サロメ』長嶺ヤス子、ホセ・ミゲル)を企画・プロデュース1982年昭和57年)、49歳。『“Carmen”二幕』(長嶺ヤス子、ホセ・ミゲル)の演出、音楽作曲1983年昭和58年)、50歳。『曼陀羅』(長嶺ヤス子 / 芸術祭優秀賞受賞)を企画・プロデュース

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