演劇、舞踏作品での仕事
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早くから演劇や踊りという表現形態に強い創造意欲を掻き立てられていた今井は、純音楽の作曲と並行して舞台演出や演劇音楽の作曲活動にも進出していった。すべての芸術の要素を結集して新しい総合芸術運動を舞台で表現したい、という欲望からだった。その際、舞台演出家・構成作家として名乗ったのが、「まんじ敏幸」という別名だった。当時は芸術のジャンルが綿密に分けられていたことから、作曲家が舞台演出等に関わると無用な誤解を受ける事例があった。それを避けるため、また日本の芸術界のセクショナリズム主義者に説明するのが億劫となって、1963年(昭和38年)、フランツ・カフカ原作の『Der Prozess(審判)』の演出からこの別名を用いた。このような活動を通じて今井はパントマイムのヨネヤマ・ママコ、モダン・ダンスの三条万里子、舞踏家(暗黒舞踏家)・振付師の土方巽を指導し、世に紹介した。また、石井漠、ノイエタンツ、江口隆哉・宮操子の流れを汲み、土方とともに舞踏界の発展に寄与し100歳を超えても第一線で活躍を続けた大野一雄(江口隆哉・宮操子舞踊団で助教師をし、舞踊団の若手と創作活動に従事していた頃、作曲家・今井と出会い、たがいに共感して舞台作品を共作した)や、本場スペインでのフラメンコ修行からスタートし、全く新しい独自の境地を切り拓いた創作舞踊家・長嶺ヤス子などとも今井は企画・演出・プロデューサーとして舞台の創作活動を共にした。 1952年(昭和27年)、19歳。『Dance Tripique Bactèries(「細菌」三章)』(二瓶博子舞踊団)の舞踊音楽を作曲。 1954年(昭和29年)、21歳。『独楽』(佐藤祐子舞踊団)の舞踊音楽を作曲。『Ballet “Pinocchio”(ピノキオ)』(横山はるひバレエ団)の舞踊音楽を作曲。『蜘蛛の糸』(江口隆哉・宮操子舞踊団)の舞踊音楽を作曲。 1955年(昭和30年)、22歳。『Dance Suite“Oedipus”(オイディプス)』(伏屋順二舞踊団)の舞踊音楽を作曲。この年、今井は舞台・舞踊界で尖端的な活動を精力的に行なっている新進芸術家たちと組んで「現代舞台芸術協会」を設立した。舞踊・音楽・演劇という境界を超越する総合的芸術運動を起こし、流派や系統に縛られずに大同団結を目指すことを理念とし、新進舞踊家の育成と発表の場も眼下に据えたグループである。そこを拠点とし、従来の枠組みにとらわれない、前衛的で新趣向に富んだ舞台芸術の創作に没頭していく。 実は今井は1950年(昭和25年)頃から、豊川稲荷(豊川稲荷東京別院)の近くにあった赤坂芸術村(通称“赤坂村”)へ、江田和雄(劇団人間座の創立者で茗荷谷の林泉寺・住職)と一緒によく通っていた。敗戦直後の赤坂界隈には、進駐軍相手の娼婦宿があった。その名残が色濃い地に、さまざまな若い芸術家たちが集まっていた。その中には、河原温、荒川修作、黒木不具人、藤原有司男、池田龍雄、金森馨ら、前衛意識の強い若い画家たちや、フランス文学の栗田勇、美術評論家のヨシダ・ヨシエ、奈良原一高などもいた。今井は彼らと交流することにより、前衛的な新分野の創造に惹かれていったようだ。現代舞台芸術協会の設立は、その時から培ってきた意欲を具体的に表した行動だった。 1956年(昭和31年)、23歳。『シジフォスの神話』(坂口智恵舞踊団)の舞踊音楽を作曲。 1957年(昭和32年)、24歳。『Unicorn(一角獣)』(大野一雄、花柳照奈)の舞踊音楽を作曲。『雪の夜に猫を捨てる』(ヨネヤマ・ママコ)の舞踊音楽を作曲。 1958年(昭和33年)、25歳。『埴輪の舞』(堤世王己、土方巽)の企画・プロデュース、舞踊音楽を作曲。『ハンチキキ』(現代舞台芸術協会)の企画・構成・演出・プロデュース。 1959年(昭和34年)、26歳。『Topeng(仮面)』(現代舞台芸術協会)の舞踊音楽を作曲。 1960年(昭和35年)、27歳。『Nepenthes(ネペンテス)』(三条万里子&青年バレエ団)の企画・構成・演出。『Quatre Chistoux(結晶体)』(現代舞台芸術協会)の舞踊音楽を作曲。『式典舞楽』(三条万里子バレエ団)の舞踊音楽を作曲。 1962年(昭和37年)、29歳。『Three Phases from ZEN(禅に基く三章)』(三条万里子バレエ団)の舞踊音楽を作曲。『二十世紀哀歌(5部作)』(簱野恵美舞踊団)の舞踊音楽を作曲。 1963年(昭和38年)、30歳。『第五次元(4部作)』(旗野恵美舞踊団)の舞踊音楽を作曲。 1964年(昭和39年)、31歳。約1年間にわたるニューヨーク修行を終え帰国。さっそく劇団アルス・ノーヴァを立ち上げて座長に就任し、同劇団のみならず、東京芸術座、劇団青俳、劇団人間座、ソシエテ・デ・ザール、劇団薔薇座、文学座などが公演する演劇の劇音楽を精力的に書いていく。同年、演出家・まんじ敏幸として『Der Prozess(審判)』(劇団アルス・ノーヴァ / フランツ・カフカ原作)、『授業』(劇団アルス・ノーヴァ / ウジェーヌ・イヨネスコ原作)の日本初演を手がける。 1964年(昭和39年)、31歳。『三つの断章』(三条万里子バレエ団)の舞踊音楽を作曲。『La Carenture(ラ・カランチュール)』(三条万里子バレエ団)の舞踊音楽を作曲。『Les Negres(レ・ネグル)』(三条万里子バレエ団)の舞踊音楽を作曲。 1965年(昭和40年)、32歳。『新アラビアン・ナイト』(劇団こまどり・バレエ部)の舞踊音楽を作曲。『挽歌』(バレエグループ「フェニックス」)の舞踊音楽を作曲。 1968年(昭和43年)、35歳。『恋は魔術師』(ラファエル・デ・コルドパ舞踊団)の舞踊音楽を編曲・指揮、構成・演出。 1969年(昭和44年)、36歳。さまざまな分野の前衛アングラ芸術の発信地として、その後伝説となった「渋谷ジァン・ジァン」の創設に関わる。のちに「渋谷ジァン・ジァン」の社長となる高嶋進が劇団アルス・ノーヴァの演劇公演を観に来た際、今井は彼にさまざまなアドバイスをした。それに大いに共鳴した高嶋は、アングラ活動の拠点としての「渋谷ジァン・ジァン」を作ったとされる。 1970年(昭和45年)、37歳。『狐化弧狐』(江川明とバレエ・バロン)の舞踊音楽を作曲。 1974年(昭和49年)、41歳。『ピノッキアーナの変容』(辻美紀バレエ団)の舞踊音楽を作曲。 1980年(昭和55年)、47歳。『娘道成寺』(長嶺ヤス子 / 芸術祭大賞受賞)を企画・プロデュース。 1981年(昭和56年)、48歳。『サロメ』(長嶺ヤス子、ホセ・ミゲル)を企画・プロデュース。 1982年(昭和57年)、49歳。『“Carmen”二幕』(長嶺ヤス子、ホセ・ミゲル)の演出、音楽を作曲。 1983年(昭和58年)、50歳。『曼陀羅』(長嶺ヤス子 / 芸術祭優秀賞受賞)を企画・プロデュース。
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