残した構想と功績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 16:01 UTC 版)
「天草はひとつ」と天草架橋開通後は天草を一つの「特例市」とする構想を発表している。そして天草を、当時国交のなかった中国や朝鮮との貿易の拠点とし、世界的な観光地へと変え、温暖な気候を利用した果樹の栽培などの構想を示した。また当時、散逸が危惧されていたキリシタン関係の遺跡等の保存や、歴史資料館の建設を提唱した。これらの施策については1957年、1959年の1月に新聞に寄稿した挨拶文で以下のように触れている。 新しい年を迎え24万島民の皆さんと共に祝賀申し上げます。思いますに昨年は町村合併の促進、各種団体の統合、国立公園の指定及びこれに伴う計画樹立と促進、天草架橋問題、国道指定、本渡瀬戸開削の国営移管、又多年要望の自治会館の建設、離島予算一本化に伴う法律改正等、重要なる問題山積、しかも一方地方再建第一年の苦しい年でありました。 不敏ながら天草振興協議会の初代会長として、又内閣の離島対策審議会委員として、その責の重さを肝に銘じながら、皆様の御鞭撻御協力添えにより今日に及びましたものの、この山積みする諸重要問題の中に苦闘、まことに切なるものがあります。 しかしながら、新しい年を迎え覚悟を新たにし、情熱を傾け、またあせらず腰を据え、郡市民の皆様と共に手と手、心と心との融和を信条として、問題解決の年と致したいものであります。然して天草文化の香り高き郷土館(仮称)の建設を提唱して年頭の辞といたします — 森国久、「新春を迎えて 夢の架橋や国道問題など」天草新聞、1957年1月1日 郷土天草の島々は美しい、この天然の資源の上に薫り高い文化的な観光施設をと念願するわたしは、わたしらしい新年の夢を描いてみました。この夢は実現可能であり、郷土を愛する皆様とご一緒に考えたいものとあえて提唱する次第です。一、離島振興事業 もう天草架橋は現実のものです。離島振興法についても旧ろう上京して新年度予算の増額運動を行いましたが、昭和33年度より4億円増加して、全国国費24億円が第一次査定をパスし、とくに港湾、漁港、道路予算は伸張し、本土並みの予算になりました。 二、郷土館の建設 キリシタン殉教の島である天草には祖先の遺された文化財が沢山あると思いますがほとんど死蔵されていることは惜しいことです。各方面の協力を得てなんとか保管するようにしたいものです。 三、植物園の造成 亜熱帯植物の育つ 島であり、地域によってはバナナも実る気候です。 四、水族館の建設 東京の上野公園には海水の水族館があります。四面海に囲まれた天草島に水族館のないことは淋しいきわみです。天草では熱帯魚の飼育も簡単だと思います。 五、体育館の建設 野球場、プールの設置とともに郷土スポーツ振興の上から早急に実現すべき。 六、ホテル、娯楽施設の増設 外国観光団の来島に備え、特に天草架橋完成後の観光客激増に対応して特別の配慮が望まれます — 森国久、「年頭に当りて」みくに新聞、1959年1月1日 一方、町政にあっては島内きっての後進性から脱皮させることを目標として多くの施策を実行した。特に全国にさきがけて母子福祉、身体障害児童、戦没者遺族年金条例等の「福祉三法」を制定した。 龍ヶ岳町では元日から町民にすばらしいお年玉が贈られた。十二月定例町議会で町母子福祉年金条例、身体障害児童年金条例、戦没者遺族年金条例のいわゆる“福祉三法”がきめられ、一日から施行されたからだ。昭和三十年から実施している老齢年金条例とともに“社会福祉の町”となった。なにしろ全国でも身体障害児童年金は広島県大野町で施行されているが三法そろって町の単独施行となったのは初めてのことだ。“となりといっしょに楽しみたい”という森さんの、これはヒューマニズムから生まれたものだ。森さんは同町樋島生まれ、この人は戦時中警察界で活躍、戦後は水産貿易事業に奔走したが請われて昭和26年樋島村長に当選。以来、樋島が高戸、大道三ヶ村が合併して龍ヶ岳村となって初代村長となり、“町長”として経験十年のベテランだ。仕事の鬼と自他共に認めている。終始何かを考え、プランを練っている。夢と創造力の豊かなこの人は話が尽きるところを知らない。カミソリのような切れ味のいい頭で仕事を片付けると定評で“町長のような頭の回転の速い人にはついていけない”と職員たちがぼやいている。だが、自分だけ先走りしないようにブレーキをかける時も心得ている。行動半径が広くて片時もじっとしておれない性格だが、経験が深いだけに“人間的な幅”が最近は特に広くなったという人もある。 三条例によって日の当たるのは50世帯、90人ぐらいと三条例を具体化した厚生課長の坂本仲市さんはいっている。 この予算は年50万円くらいだ。年間一億円を超えようとする町の予算内では微々たるものだが、"億単位の事業に相当する三条例だ”と、谷間の人たちにスポットをあてることに懸命の努力をはらっている。 そういえば自宅から役場への出勤、退庁のコースも毎日変えるという森さんはその往復で一人でも多くの人たちに言葉をかけたいというのが願いだ。暴力を極度ににくむこの人の柔和さはかっての警察の体質から生まれたのであろうか。寸暇を惜しんで書物を読んでいる。頭脳的な“青年森さん”にとって黄金の年が明けたのだった。 天草島からはみ出しそうな活躍をみせるこの人は、全国離島振興協議会のほか内閣離島対策審議委員、郡町村会長など多くの公職に精力的な働きをみせている。モットーは“仕事こそ生きガイ” — 「<熊本の顔>“全国初の“町の福祉三法”を施行した龍ヶ岳町長」熊本日日新聞、1961年1月7日
※この「残した構想と功績」の解説は、「森国久」の解説の一部です。
「残した構想と功績」を含む「森国久」の記事については、「森国久」の概要を参照ください。
- 残した構想と功績のページへのリンク