有料道路と運河
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 07:48 UTC 版)
「アメリカ合衆国の技術と産業の歴史」の記事における「有料道路と運河」の解説
アメリカ合衆国の13州はローマ帝国の凋落以降のヨーロッパでのどの国よりも広い地域(ニューハンプシャー州からジョージア州まで)を管理していた。1803年までにケンタッキー州、テネシー州およびオハイオ州の加盟で地域はさらに拡大しており、これら内陸の西部州と海岸地域の間の輸送手段は徒歩、動物あるいは船に頼っていた。ローマ帝国が国を束ねるために造ったローマ街道の成功例に倣い、アメリカ合衆国の政界や実業界の指導者が国の遠隔地を繋ぐ道路と運河の建設を始めた。 初期の有料道路は、建設資金を集めるために株を売った共同持ち株会社によって建設され所有された。例えば、1795年に造られたペンシルベニア州のランカスター・ターンパイク会社がある。 1808年、アメリカ合衆国財務長官アルバート・ギャラティンの「共和国の道路と運河に関する報告書」では、連邦政府が州間の有料道路と運河の建設予算を確保すべきと提案した。多くの民主共和党員が連邦政府にそのような役割を託すことに反対したが、米英戦争の時にイギリスによる海上封鎖によって、軍事行動や一般の通商のためにもそのような内陸の道路に頼っていることが明らかになった。カンバーランド道路の建設は1815年メリーランド州カンバーランドから始まり、1818年にはバージニア州ホィーリングに届いたが、その後の政争によってミシシッピ川方面に西に伸びることが妨げられていた。それにも拘わらず、道路はアパラチア山脈を抜ける主要な内陸導線となり、南北戦争前には数多くの西へ向かう開拓者の道筋になった。 多くの運河会社も認可されたが、多くの運河が計画された中でわずか3本のみが米英戦争の始まった1812年までに完成していた。バージニア州のディズマル・スワンプ運河、サウスカロライナ州のサンティー運河およびマサチューセッツ州のミドルセックス運河であった。内陸との交流に新時代を開く先駆けとなったのは1817年に承認されたニューヨーク州のエリー運河であった。この西部との交易のための大胆な計画は、それでなくてもアメリカ国道の完成でボルチモアへの交通の大半を取られる怖れのあったフィラデルフィアの商人に警告を与えた。1825年、ペンシルベニア州議会は一連の運河を計画することでこの問題に取り組んだ。それはその大きな海港と西はピッツバーグ、北はエリー湖と上部サスケハナを結ぶものであった。 有料道路と同様に、初期の運河も私設の共同出資会社によって建設され所有され運営されたが、後に大きな計画は州の予算で行われるようになった。ニューヨーク州知事デウィット・クリントンが提案したエリー運河は、地方債の発行によって公共のリスクで予算化され、公共の利益として計画された最初の運河であった。この計画が1825年に完成されたとき、エリー湖とハドソン川が繋がれ、閘門の数は83カ所、前兆は363マイル (584 km)となった。エリー運河の成功は国中の運河建設ブームを呼び、1816年から1840年の間に総延長で3,326マイル (5,322 km)の人工水路が出来上がった。ニューヨーク州のシラキュースとバッファロー、オハイオ州のクリーブランドなど大きな運河沿いにあった小さな町が、大きな産業と交易の中心に成長し、一方でペンシルベニア州、オハイオ州およびインディアナ州などの州は熱狂的な運河建設のために破産寸前までいった。 しかし、内陸部との交易が拡大するにつれて輸送に関わる問題の大きさは、個別の州や私設の会社で対処できる限界を越えていた。1807年には既に、アルバート・ギャラティンが東部と西部を繋ぐ巨大内陸水路システムの建設を提案していたが、その予算は2千万ドルと見積もられていた。しかし、ジェファーソンの時代に連邦政府が内陸部の改良に果たしたというものは、1806年の予算で見れば、オハイオ州の公有地販売額の2%に過ぎず、アメリカ国道をそれが通る州の了解を得て建設するために使われた。1818年までにこの道路が開通しメリーランド州カンバーランドとウエストバージニアのホィーリングとを結んだ。 1816年、米英戦争の体験を受けて、この問題に関する情報を仕入れた政治家は国の問題として黙っているわけにはいかなかった。マディソン大統領ですら、「包括的な道路と運河のシステム」を建設する必要性について議会の注目を喚起した。議会が招集されると直ぐに、内陸部の改良に1,500万ドルの予算化を提案するジョン・カルフーン作成の法案が議論された。この予算は国立銀行によって政府に支払われた金で賄われたため、この法案は一般に「ボーナス法案」と呼ばれた。しかし、マディソン大統領は任期満了の前日に、その法案が違憲であるとして拒否権を発動した。連邦政府による内陸部改良の政策は、最後のバージニア出身支配者の憲法に対する罪の意識で頓挫した。アメリカ合衆国下院は、合憲性についてはあまり配慮しておらず、裁決の結果も接近したもので、道路と運河の建設予算を承認したが、それを実行する権限は無かった。その結果、連邦政府で拠出した内陸部改良のための予算は、様々な費目を合わせてもカンバーランド道路のための約150万ドルにしかならなかった。 1819年の恐慌に続いての不況から国全体が回復するに連れて、内陸部改良の問題が再び全面に出てきた。1822年、カンバーランド道路で通行料を集めることを承認するための法案はモンロー大統領に拒否された。モンローは内陸部改良に関する合憲性についてその見解を、念を入れた随筆で表明した。モンローは、議会が予算化することを認めたが、国の仕事として実際に建設することも、それが法に適っているとも見ていなかった。内陸部改良に国が大きく関わるという考えは暫くの間停滞した。2年後、議会は大統領が交易や軍事目的で必要と考えるならば道路や運河のための調査を行う権限を大統領に与えた。ヘンリー・クレイ以外に連邦政府の機能についてより大きな概念を雄弁に説明できる者はいなかった。クレイは大西洋岸の調査や灯台に対して成されている事項に聴衆の注意を惹き付け、国の内陸部がいかに無視されているかを訴えた。他の大統領候補の中でも、アンドリュー・ジャクソンは上院で一般測量法案に賛成票を投じた。ジョン・クィンシー・アダムズは大衆の心の中に疑いを残さず、この問題に関するその党派の狭い了見には影響されなかった。ウィリアム・クロウフォードは南部ではどこでも声の上がっている違憲性を感じ取り、国による内陸部改良を認める憲法修正という古い手段に拠ろうとした。 アダムズが大統領になって最初に議会に伝えたことは、道路と運河を建設することだけでなく、天文台や国立大学を造ることも提案することだった。ジェファーソン元大統領は1806年に既に議会に対し、憲法に対する必要な修正を考慮するよう促し、これらのことも推奨していた。アダムズは憲法の制限を忘れていたように見えた。ジェファーソンはマディソンに対し、1798年に遡り、内陸部改良の法案に反対する方向に向けられた決議案について、新しい決議案をバージニア州が採択することが望ましいと何度も警告していた。1826年3月、合衆国議会は以前の決議の原則全てが、議会によって製造者を保護しさらに内陸部改良を推進する法案を通すことができるとみなされる権限に全力で反対すると宣言した。アダムズの政策は議会の反対にあって過去の遺物になった。
※この「有料道路と運河」の解説は、「アメリカ合衆国の技術と産業の歴史」の解説の一部です。
「有料道路と運河」を含む「アメリカ合衆国の技術と産業の歴史」の記事については、「アメリカ合衆国の技術と産業の歴史」の概要を参照ください。
- 有料道路と運河のページへのリンク