方円社の棋士
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梅主長江( -1886頃)安井家門下で、元の名は白石喜三郎。家元と方円社が不和になって免状剥奪となった際に、自ら五段を返上して方円社に入社した。 水谷四谷( -1887頃)水谷琢廉の子[要出典]、五段。方円社設立に参加。 杉山千和(1821-1899)美濃国生まれ、旧姓山本、旧名千代三郎。伊藤松和に学び、本因坊秀和より五段、方円社より六段を受ける。 高橋周徳(1822-1886)旗本で元の名は鍋三郎、安井息軒から周徳の号を受ける。方円社設立に尽力した。五段。 今井金江茂(-1895)本因坊門下で旧名金蔵。方円社設立直後に入社、横浜在住し、五段まで進む。 林佐野(1825-1901) 林元美実子[要出典]で林家の分家林藤三郎の養女となり、16歳で入段。方円社創設に協力、三段に進み、喜多文子らを育てた。 山崎外三郎(1829-1894)尾州徳川藩士で、加藤隆和門下で五段となる。上京して方円社員と多く対局を重ね、六段を追贈された。 梶川昇(1831-1890)伊勢国生まれ、元の名は守禮、旧姓橘。医者の家柄だが、本因坊秀和門下で学び五段となり、方円社設立に参加して東上。郷里で県会議員、徴兵参事官などを務めた。 吉田半十郎(1831-1897)本因坊秀悦らとの六人会を経て方円社設立を進めた。 高橋杵三郎(1836-1902)本因坊秀和門下で、方円社四天王の一人。水谷縫治と十番碁。 三好紀徳(1837-1885)佐賀藩の儒士。三段。「囲棋新報」で評論を執筆。 黒田俊節(1839-1884)服部正徹門下で、大阪に居し、初期の方円社棋士と交流した。 高崎泰策(1839-1907)関西、中京で大塚亀太郎、泉秀節らと囲碁普及に努めた。 泉秀節(1844-1904)中川順節門下で、大阪方円分社を設立。子の泉喜一郎が分社長を継いだ。 大沢銀二郎(1844-1906)安井算知門下、9歳の時に聾となる。28歳で四段。方円社設立時に入社し、方円社、安井家より五段。1901年に方円社勤続功労の褒状を贈られた。 水谷縫次(1846-1884)少年時代に秀策との対局で名が知られていたが、秀甫の招聘で1880年に愛媛から上京して方円社定式会に参加、四段(6級)を認定。その後秀甫にただ一人先相先の手合い進むが、38歳で夭逝。 内垣末吉(1847-1918)因幡国生れ。本因坊秀和門下で三段となり、明治になって官職に転じ、井上馨に従って1903年まで精勤。方円社設立に参加し、1912年六段に進む。没後方円社より追悼七段。 小林鉄次郎(1848-1893)井上門下だったが方円社設立時から参加。実務的手腕に優れ、幹事、副社長も務めるなど運営面で大きく貢献した。 酒井安次郎(1851-1883)江戸の生まれ、吉田半十郎門下で、雀小僧と呼ばれる。小林鉄次郎と信州遊歴の後、方円社設立に参加し、方円社四天王の一人となり、五段に昇る。 稲垣兼太郎(1854-1940)方円社設立とともに入社。中京碁界の組織化に尽力した。 中根鳳次郎(1855-1921)井上松本因碩門下から方円社に参加。岡山、神戸で方円社分社設立。 関源吉(1856-1925)本因坊秀和、秀甫に学び、石井千治と青年囲碁研究会を設立、本因坊秀栄らと碁界合同を探った。 石井千治(1869-1928)1983年に入塾、85年初段。中川亀三郎没後に養子となり、一時期方円社脱退し二代目中川亀三郎を襲名、その後4代目社長を務める。 長野敬次郎(1870-1921)鹿児島生まれ。長崎で重久元和に学び、1903年に東京に出て方円社に参加、1904年三段、1909年五段。その後は九州碁界発展に尽くした。 林徳蔵(1872-1931)1908年に本因坊門と方円社から二段を認められ、1919年四段、追贈五段。林有太郎の父。 都築米子(1872-1937)本因坊秀栄、梅主長江に教えを受け、方円社定式手合に参加、囲碁同志会にも参加した。追贈五段。 田村保寿(本因坊秀哉、1874-1940)1885年に方円社に入塾し、住み込みの塾生となる。石井千治、杉岡栄次郎とともに方円社の三小僧と呼ばれるが、1891年に除名。その後本因坊秀栄門下となり、秀栄死後に21世本因坊となる。 喜多文子(1875-1950)方円社で女流棋士のパイオニアとして活躍し、日本棋院設立時にの調整に奔走した。 小林鍵太郎(1875-1935)父は小林鉄次郎。18歳初段。父は棋士となることを禁じたが、父の死後に囲碁の道へ進む。五段。実子の小林誠一も棋士。 竹田逸子(1875-1935)以津子とも書いた。旧名高橋閑子。明治20年頃に方円社女子部に在籍したが、公式手合は打たず、指導に徹し、また薙刀など多芸の持ち主だった。四段。門下に竹中幸太郎、星野紀など。 井上孝平(1877-1941)巌崎健造に学び、本因坊秀栄、秀哉などとも繋がりを持ち、石井千治の囲碁同志会にも参加。 田村嘉平(1878-1937)方円社塾生の後、京都、大阪で活動、方円社京都分社長、日本棋院関西支部長を務める。 吉田操子(1881-1944)泉秀節、本因坊秀哉らに学んだ後、京都で囲碁界組織化。日本棋院設立では関西碁会をまとめた。 都谷森逸郎(1882-)青森県生まれ。広瀬平治郎門下で、1923年五段。関西で手合の他、著作を多く残した。 伊藤幸次郎(1883-1956)東京生まれ。1899年に巌崎建造に入門、入段の後に方円社塾生となり、日本棋院にも所属。六段。琵琶の名手としても知られた。 鈴木為次郎(1883-1960) 中学時代から方円社に通い、巌崎健造の弟子となって棋士となるが、脱退して裨聖会を設立。日本棋院時代にかけて一貫して本因坊秀哉打倒に執念を燃やした。 瀬越憲作(1889-1972)20歳で上京して入社、裨聖会に参加し三派鼎立の後、大倉喜七郎の後援を得て日本棋院設立を為した。 久保松勝喜代(1894-1941)泉秀節に学び、関西囲碁研究会などを組織。少年時代の橋本宇太郎、木谷實らの他、多くの関西棋士を育てた。 小野田千代太郎(1896-1944)方円社塾生から新進棋士として活躍。中央棋院で坊社合同に尽力した。 向井一男(1900-1969)愛媛県出身、田坂信太郎門下。1918年入段。本因坊門下と共同の若手棋士研究会六華会設立の中心となった。 岩本薫(1902-1999)1913年に広瀬平治郎に入門し、1917年入段。第3-4期本因坊。戦後の日本棋院復興、海外への囲碁普及に尽力した。 橋本宇太郎(1907-1994)久保松勝喜代門下を経て、1920年に瀬越憲作に入門、1922年入段。第2、5-6期本因坊。1950年に関西棋院設立。
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