方円社の棋士とは? わかりやすく解説

方円社の棋士

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/28 13:43 UTC 版)

方円社」の記事における「方円社の棋士」の解説

長江( -1886頃)安井家門下で、元の名は白石喜三郎家元方円社不和になって免状剥奪となった際に、自ら五段を返上して方円社入社した水谷四谷( -1887頃)水谷琢廉の子[要出典]、五段。方円社設立参加杉山千和(1821-1899)美濃国生まれ旧姓山本旧名千代三郎伊藤松和学び本因坊秀和より五段、方円社より六段を受ける。 高橋周徳(1822-1886)旗本で元の名は鍋三郎安井息軒から周徳の号を受ける。方円社設立尽力した。五段。 今井金江茂(-1895)本因坊門下旧名金蔵方円社設立直後入社横浜在住し、五段まで進む。 佐野(1825-1901) 林元美実子[要出典]で林家分家藤三郎の養女となり、16歳入段方円社創設協力三段進み喜多文子らを育てた山崎三郎(1829-1894)尾州徳川藩士で、加藤隆門下で五段となる。上京して方円社員と多く対局重ね六段追贈された。 梶川昇(1831-1890)伊勢国生まれ、元の名は守禮旧姓医者家柄だが、本因坊秀和門下学び五段となり、方円社設立参加して東上郷里県会議員徴兵参事官などを務めた吉田半十郎(1831-1897)本因坊秀悦らとの六人会を経て方円社設立進めた高橋杵三郎(1836-1902)本因坊秀和門下で、方円社四天王一人水谷縫治と十番碁。 三好紀徳(1837-1885)佐賀藩の儒士。三段。「囲棋新報」で評論執筆黒田俊節(1839-1884)服部正徹門下で、大阪に居し、初期方円社棋士交流した高崎泰策(1839-1907)関西中京大塚亀太郎泉秀節らと囲碁普及努めた泉秀節(1844-1904)中川順節門下で、大阪方円分社設立。子の泉喜一郎が分社長を継いだ大沢銀二郎(1844-1906)安井算知門下9歳時に聾となる。28歳四段方円社設立時入社し方円社安井家より五段。1901年方円社勤続功労褒状贈られた。 水谷縫次(1846-1884)少年時代に秀策との対局で名が知られていたが、秀甫の招聘1880年愛媛から上京して方円社定式会に参加四段(6級)を認定その後秀甫にただ一人先相先の手合い進むが、38歳夭逝。 内垣末吉(1847-1918)因幡国生れ本因坊秀和門下三段となり、明治になって官職転じ井上馨に従って1903年まで精勤方円社設立参加し1912年六段に進む。没後方円社より追悼七段。 小林鉄次郎(1848-1893)井上門下だったが方円社設立時から参加実務的手腕優れ幹事副社長務めるなど運営面大きく貢献した酒井安次郎(1851-1883)江戸生まれ吉田半十郎門下で、雀小僧と呼ばれる小林鉄次郎信州遊歴の後、方円社設立参加し方円社四天王一人となり、五段に昇る稲垣兼太郎(1854-1940)方円社設立とともに入社中京碁界の組織化尽力した中根鳳次郎(1855-1921)井上松本因碩門下から方円社参加岡山神戸方円社分社設立関源吉(1856-1925)本因坊秀和、秀甫に学び石井千治青年囲碁研究会設立本因坊秀栄らと碁界合同探った石井千治(1869-1928)1983年入塾85年初段中川亀三郎没後養子となり、一時期方円社脱退し二代目中川亀三郎襲名その後4代目社長務める。 長野敬次郎(1870-1921)鹿児島生まれ長崎重久元和学び1903年東京出て方円社参加1904年三段1909年五段。その後九州碁界発展尽くした徳蔵(1872-1931)1908年本因坊門と方円社から二段認められ1919年四段追贈五段。林有太郎の父。 都築米子(1872-1937)本因坊秀栄長江教えを受け、方円社定式手合参加囲碁同志会にも参加した追贈五段。 田村保寿(本因坊秀哉、1874-1940)1885年方円社入塾し住み込み塾生となる。石井千治栄次とともに方円社の三小僧呼ばれるが、1891年除名その後本因坊秀栄門下となり、秀栄死後21世本因坊となる。 喜多文子(1875-1950)方円社女流棋士パイオニアとして活躍し日本棋院設立時に調整奔走した小林太郎(1875-1935)父は小林鉄次郎18歳初段。父は棋士となることを禁じたが、父の死後囲碁の道へ進む。五段。実子小林誠一棋士竹田逸子(1875-1935)以津子とも書いた旧名高橋閑子。明治20年頃に方円社女子部在籍したが、公式手合打たず指導徹し、また薙刀など多芸持ち主だった。四段門下竹中幸太郎星野紀など。 井上孝平(1877-1941)巌崎健造学び本因坊秀栄、秀哉などとも繋がり持ち石井千治囲碁同志会にも参加田村嘉平(1878-1937)方円社塾生の後、京都大阪活動方円社京都分社長、日本棋院関西支部長を務める。 吉田操子(1881-1944)泉秀節本因坊秀哉らに学んだ後、京都囲碁界組織化日本棋院設立では関西碁会をまとめた。 都谷逸郎(1882-)青森県生まれ広瀬平治郎門下で、1923年五段。関西手合の他、著作多く残した伊藤幸次郎(1883-1956)東京生まれ1899年に巌崎建造入門入段の後に方円社塾生となり、日本棋院にも所属六段琵琶名手としても知られた。 鈴木為次郎(1883-1960) 中学時代から方円社通い巌崎健造弟子となって棋士となるが、脱退して裨聖会設立日本棋院時代にかけて一貫して本因坊秀哉打倒執念燃やした瀬越憲作(1889-1972)20歳上京して入社裨聖会参加し三派鼎立の後、大倉喜七郎後援得て日本棋院設立為した久保松勝喜代(1894-1941)泉秀節学び関西囲碁研究会などを組織少年時代橋本宇太郎木谷實らの他、多く関西棋士育てた小野田千代太郎(1896-1944)方円社塾生から新進棋士として活躍中央棋院で坊社合同尽力した向井一男(1900-1969)愛媛県出身田坂信太門下1918年入段本因坊門下共同若手棋士研究会設立中心となった岩本薫(1902-1999)1913年広瀬平治郎入門し1917年入段。第3-4期本因坊戦後の日本棋院復興海外へ囲碁普及尽力した橋本宇太郎(1907-1994)久保松勝喜代門下経て1920年瀬越憲作入門1922年入段。第2、5-6期本因坊1950年関西棋院設立

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