方円社と坊門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/28 14:08 UTC 版)
1870年(明治3年)に東京に戻り、この頃秀甫が根岸に教場を開いていたのに付いて、高橋杵三郎、大沢銀次郎に指導を受ける。しかしほどなく秀甫は遊歴に出て江戸を離れ教場も解散したため、源吉も17歳ながら信州、上州の遊歴に出る。翌年帰京するが、1875年に伊豆で療養中に、沼津にいる中村正平の許に滞在していた秀甫を訪ね、秀甫に二子でジゴとした。1877年には大阪で泉秀節に先で打ったが先二となり、吉原文之助に先番逆コミ5目で敗れ、阿部亀次郎先相先から先番逆コミ2目に打込まれる。九州にも足を伸ばし、1881年末に東京に戻り、翌1月に方円社に初段をもって入社。次いで二段、4月には三段に進んだ。しかし脳病に冒されて対局を禁じられ、1883年に方円社を退社。上州を経て新潟に滞在し、新潟市櫻井浅二郎二段、五泉町伊藤源次郎(のち三段)、長岡関文八初段、佐渡島田中得太郎初段と交流した。 1888年に帰京し、翌年再度方円社入社。石井千治と青年囲碁研究会を設立、石井と十番碁を打って、5勝4敗1ジゴ。1891年に四段。この頃、神田神保町の方円社の新築に尽力、また方円社と本因坊家の合同を金玉均と計ったがうまくいかなかった。さらに碁界興隆策を提案するが受け入れられず、1894年に退社し、本因坊秀栄、安井算英と碁界統一を策したがこれもうまくいかなかった。しばらく碁界から離れるが、1905年に碁界に戻り、1906年に秀栄から新聞手合に誘われて出場、日本囲碁会で教授を担当。1908年の秀栄没時に遺命にて五段昇段。秀栄後継者についても遺言を墨守して雁金準一を支持し、敲玉会に所属、田村保寿からの二十一世本因坊襲名の通知も返送した。その後はどこにも所属せず、1909年に浦和で独立庵柯山と号して教室を開いた。
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