方円社運営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/13 00:09 UTC 版)
方円社は本因坊秀栄との角錐があったが、明治26年(1993年)に方円社が錦町に新館を建設した披露会で、巌崎は秀栄と記念対局を行う。しかしこの碁の「方円新報」掲載時に、当時の方円社の級位制に則り「本因坊秀栄三級」と記したために秀栄は憤慨し、方円社は段位制に戻る。その後、秀栄の力量の向上につれて、本因坊門に多くの棋士が集まり、方円社の塾生もそこに含まれた。また方円社を除名されていた田村保寿も、金玉均の紹介で秀栄門下となった。明治26年には方円社創立から実務に尽した小林鉄次郎が死去、明治28年には秀栄の研究会「四象会」も始まり方円社の棋士も出席するなど、方円社の勢いは鈍り始める。 社長になると財政の改善を進め、神田にあった社屋を下谷区徒町の自宅に移した。明治33年(1900年)には『囲棋初学独習新報』を刊行して、初心者吸収も目指し、当時日清戦争後の経済拡大もあり、経営は安定した。 秀栄は明治39年(1906年)に名人に就位するが、巌崎はこれに異義を唱え、披露会の席上で争碁を申し込むが、巌崎が長考で有名だったこともあって、秀栄が当時筆頭弟子だった田村を代役としたため、巌崎は争碁を撤回した。明治43年(1910年)には東京朝日新聞で三十六段連碁、万朝報で坊門との対抗戦を企画するなど、経営に手腕を発揮した。また鈴木為次郎や瀬越憲作を育て、瀬越の試験手合の相手に鈴木を選び、瀬越の飛び付き三段を認めた。
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