林有太郎とは? わかりやすく解説

林有太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/16 13:22 UTC 版)

林 有太郎(はやし ゆうたろう、1900年明治33年)3月28日 - 1983年昭和58年)3月25日)は、日本囲碁棋士愛知県出身。

本因坊秀哉門下、日本棋院所属、九段。第4期本因坊戦挑戦者決定戦進出、首相杯争奪戦優勝など。

堅実な棋風で「小秀策」と言われた。父は林徳蔵五段。

経歴

愛知県豊橋市大村に生まれる。父徳蔵は豊橋市生まれ、事業のために京都に移った後、1908年(明治41年)に本因坊家方円社から二段を認められ、上京して専門棋士となった。1931年に60歳で没し追贈五段。有太郎は京都にいた9歳頃に父から碁の手ほどきを受け、その後方円社に通ったが、12歳の時に父に本因坊秀哉のところに連れられ、八子で勝ち、本因坊家で教えを受けるようになる。この頃の秀哉門下の小岸壮二や、後に入門した福田正義と腕を磨いた。11歳頃の時に棋譜が新聞に載り、解説した野沢竹朝から「小秀策の面影がある」と書かれた。1917年(大正6年)に秀哉より初段を受け、その後1923年四段。1924年に日本棋院が設立され、26年福田とともに五段に昇る。

1927年からの棋正社との院社対抗戦では6番手として登場、雁金準一小野田千代太郎高部道平の棋正社3名に勝ち抜く活躍をして勇退。1928年秋期大手合に優勝し、翌29年六段昇段。1940年七段。1946年に始まった第4期本因坊戦で、第一次トーナメントを勝ち抜いて第二次トーナメントに出場、決勝戦で木谷實と三番勝負を行い、0-2で敗れた。第5期本因坊戦では七段戦を勝ち抜いて挑戦者決定リーグ戦出場、第8期リーグにも出場。

1956年に第1期囲碁選手権戦決勝に進出、決勝で木谷實に0-2で敗れたが、高松宮賞を受賞。1962年首相杯争奪戦決勝で大窪一玄に勝って優勝。同年62歳で第2期名人戦リーグ入り。1963年八段。1969年、69歳で九段昇段。1983年、本因坊戦の予選を打って帰宅後に羊羹誤嚥して急逝。当時現役最長老の82歳だった。羽織袴姿で通し、対局中も正座を崩すことは無く、謹厳・実直な人柄で知られた。

  • 大手合甲組優勝2回(1928年秋期、1936年春期)
  • 大倉賞受賞 1978年

その他

長男が1957年少年誘拐ホルマリン漬け事件を起こしている。

参考文献

  • 現代囲碁大系 4 昭和名棋士集二』講談社 1981年
  • 伊藤敬一「思い出の棋士 林有太郎九段」(『棋道』日本棋院 1985年5-7月号)




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