福田正義 (囲碁棋士)とは? わかりやすく解説

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福田正義 (囲碁棋士)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/20 03:30 UTC 版)

福田 正義(ふくだ まさよし、1899年明治32年〉 - 1981年昭和56年〉11月6日[1])は、日本囲碁棋士豊橋市出身、本因坊秀哉門下、日本棋院所属、八段。棋士として初めての海外派遣として、ドイツなど囲碁の海外普及に尽力した。

経歴

1911年に豊橋で催された福田銀二郎四段の追善囲碁大会に本因坊秀哉が出席し、この時に秀哉に八子で打ち、碁は負けたが、入門を許可されてこの年の4月に内弟子となった。1917年(大正6年)入段。1920年に自邸で少年研究会を開いていた大倉喜七郎に、小杉丁とともに連れられて青島北京京城に旅行し、海外への関心を強める。1921年、萬朝報の本因坊・方円社対抗碁戦出場(三段)。1923年の中央棋院設立に参加(四段)。また若手棋士の研究会六華会に参加。1922年に独立し、千葉県市川市に住む。1924年日本棋院設立に参加。1925年に兄弟子小岸壮二の妹須美子と結婚。1926年の院社対抗戦では日本棋院4番手として出場(五段)。

1936年に大倉喜七郎ベルリン訪問し、フェリックス・デューバル(Felix Dueball)らドイツ囲碁界からの講師派遣を依頼されたのを受け、1937年に日本棋院からドイツに派遣され、1941年まで滞在。1939年からは各国を行脚した。1942年六段。1943年に満州に派遣され、当時宮坂宷二が興していた満州棋院と別に、日本棋院満州別院を設立。

戦後1946年に満州から復員し、1948年に復活した大手合に参加。1950年アメリカ訪問。この時プリンストン大学にいた矢野健太郎の紹介で、アインシュタインを贈った。54年にも訪米して湯川秀樹と八子で対局し、盤石を贈る。1965年には増淵辰子団長でのヨーロッパ囲碁親善旅行に参加。1967年にも渡米。1968年に低血糖病で倒れて手合を休場。1971年大倉賞を受賞。1978年に『囲碁クラブ』誌に小岸壮二の伝記を執筆、同年8月引退、七段。1981年、勲五等双光旭日章受章。同年死去、追贈八段。

門下に藤沢秀行榊原章二石田章。学生碁界、地方碁界への貢献も大きい。

戦績

著作

  • 『独逸の思い出』壮光舎印刷 1979年

脚注

  1. ^ 「福田正義氏(日本棋院棋士、7段)死去」『讀賣新聞』1981年11月7日、朝刊、23面。

参考文献

  • 安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年
  • 木谷實『囲碁百年 2 新布石興る』平凡社 1968年
  • 坂田栄男『囲碁百年 3 実力主義の時代』平凡社 1969年
  • 安永一『囲碁百年』時事通信社 1970年
  • 現代囲碁大系 4 昭和名棋士集二』講談社 1981年
  • 秋山賢司「囲碁史に遊ぶ 35回 アインシュタインに碁を教えた」『碁ワールド』2010年11月号



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