福田正臣とは? わかりやすく解説

福田正臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/27 06:57 UTC 版)

福田正臣
生誕 (1919-03-25) 1919年3月25日
日本鹿児島県
死没 (2012-03-28) 2012年3月28日(93歳没)
日本鹿児島県鹿児島市[1]
医学関連経歴
職業 医者
専門 内科医

福田 正臣(ふくだ まさおみ、1919年3月25日[2] - 2012年3月28日 [2])は、日本医師医学者内科医[2]医学博士心筋梗塞研究の権威だった[3]

人物

鹿児島県奄美大島名瀬の生まれで[3]大島郡龍郷町出身[4]。1942年第七高等学校造士館 (旧制)理科卒業。1945年九州帝国大学医学部を卒業して[4]操坦道教授の[3]第一内科に副手として入局し、1951年九州大学第一医学部内科助手[4]。1952年鹿児島市立病院内科医長に就く[4]。1953年九州大学より医学博士授与[4]。論文の題は「抗痙攣剤の人体脳波に及ぼす影響について」[5]。1955年1月鹿児島大学医学部第一内科助教授に就任[4]。鹿児島大学助教授を長く務めた後、再び鹿児島市立病院に転じて循環器内科部長[3]

1966年、鹿児島大学医学部助教授のとき、101歳という泉重千代を診察し、「100歳を過ぎても胃腸はすこぶる順調。歯がなくなったものの普通にご飯やおかずを食べる、目も耳も達者である」とする[6]1973年、107歳という泉重千代と会う[6]。1979年、日本老年医学会」で、泉重千代の世界最高年齢に否定的な研究を発表する[6]

自然保護運動にも、積極的に参加する。1978年4月には、「鹿児島・渚を愛する会」の設立に携わる[7]。この会は、後に「NPO鹿児島渚を愛する会」となり、理事長に就任する[7]

2002年8月、奄美群島龍郷町の渚診療所の設立にたずさわる[8]。一月一週間だけ滞在して、診察活動を行う活動を続けてきた[8]

2012年3月28日 11時20分、逝去[1]。享年93。

脚注

  1. ^ a b 鹿児島・渚を愛する会. “訃報 福田正臣 氏”. 2015年9月11日閲覧。
  2. ^ a b c 鹿児島西ロータリークラブ. “福田正臣会員 ご逝去 ―平成24年3月28日、93歳”. 2015年9月11日閲覧。
  3. ^ a b c d 南日本新聞社 編『郷土人系 下』春苑堂書店、1970年、282, 336頁。
  4. ^ a b c d e f 永徳緑峯 著、鹿児島県郷土史研究会 編『薩摩医学史 上巻』新時代社、1965年9月1日、285頁。
  5. ^ 博士論文書誌データベース
  6. ^ a b c 健康長寿MEUSEUM - 泉重千代
  7. ^ a b 渚を愛する会について
  8. ^ a b 渚診療所 - 福田正臣

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