文と武の世界へ――奔馬とは? わかりやすく解説

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文と武の世界へ――奔馬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:28 UTC 版)

三島由紀夫」の記事における「文と武の世界へ――奔馬」の解説

英霊の聲』を発表した1966年昭和41年6月三島奈良県率川神社三枝祭百合祭)を見学し長編大作第二巻となる連載奔馬」の取材始めた8月下旬からは大神神社に赴き、三輪山三光の滝に打たれ座禅した後、色紙に「清明」と揮毫した。その後広島県訪れ恩師清水文雄らに会って江田島海上自衛隊第一術科学校見学し特攻隊員遺書読んだ清水らに見送られ熊本県到着した三島は、荒木精之らに迎えられ蓮田善明未亡人森本忠(蓮田先輩)と面会し神風連ゆかりの地新開大神宮桜山神社など)を取材して10万円の日本刀購入した。この旅の前、三島清水宛てに〈天皇神聖は、伊藤博文憲法にはじまるといふ亀井勝一郎説を、山本健吉氏まで信じてゐるのは情けないことです。それで一そう神風連興味持ちました神風連には、一番本質的なかがある、と予感してゐます〉と綴った10月には自衛隊体験入隊希望し防衛庁関係者や元陸将藤原岩市などと接触して体験入隊許可のための仲介口利き求め12月には舩坂弘著作序文書いた返礼として日本刀・関ノ孫六を贈られた。同月19日小沢開策から民族派雑誌創刊準備をしている若者らの話を聞いた林房雄紹介で、万代潔(平泉澄門人明治学院大学)が三島宅を訪ねて来た。 翌1967年昭和42年1月に、その雑誌論争ジャーナル』が創刊され副編集長万代潔が編集長中辻和彦と共に三島宅を再訪し、雑誌寄稿を正式依頼して以降三島は同グループとの親交深めていった。同月には日本学生同盟持丸博三島訪ね翌月創刊の『日本学生新聞』への寄稿依頼した三島日本守ろうとする青年たちの純粋な志に感動し、〈覚悟のない私に覚悟固めさせ、勇気のない私に勇気を与へるものがあれば、それは多分、私に対す青年側から教育の力であらう〉と綴った三島42歳となるこの年元日新聞で、執筆中の〈大長編完成〉が予定されている47歳の後には、〈もはや花々しい英雄的末路永久に断念しなければならぬ〉と語り、〈英雄たることをあきらめるか、それともライフワーク完成あきらめるか〉の二者択一難し決断今年は来る予感がするとして、西郷隆盛加屋霽堅が行動を起こした年齢挙げながら、〈私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ〉と〈年頭の迷ひ〉を告白した4月12日から約1か月半、単身自衛隊体験入隊した三島は、イギリスノルウェースイスなどの民兵組織の例に習い国土防衛一端を担う「祖国防衛隊」構想固めた後、学生らを引き連れて自衛隊への体験入隊定期的に行なった以降三島航空自衛隊F-104戦闘機への搭乗体験や、陸上自衛隊調査学校情報教育課長山本舜勝とも親交し、共に民兵組織(のち「楯の会」の名称となる)会員への指導を行うことになる(詳細三島由紀夫自衛隊参照)。 これらの活動平行し1967年昭和42年2月から「奔馬」が『新潮』で連載開始された(1968年8月まで)。この小説は、血盟団時代背景昭和維新賭けた青年自刃描き美意識政治的行動深く交錯し作品となった同年2月28日には、川端康成石川淳安部公房連名で、中共文化大革命抗議する声明記者会見行なった5月には英訳版の『真夏の死 その他』が1967年フォルメントール国際文学賞第2位受賞した(『午後の曳航』も候補作品)。この賞を推薦したドナルド・キーン三島の本が2位終わったことを残念がっていると、 たまたまスウェーデンから参加していた有力出版社ボニエールの重役が「三島はずっと重要な賞(ノーベル文学賞)をまもなく受けるだろう」とキーン慰めた6月には日本空手協会道場入門し中山正敏日本空手協会首席師範)のもと、7月から空手稽古始めた三島中山に、「私は文士として野垂れ死にはしたくない。少なくとも日本人として、行動通して〈空〉とか〈無〉というものを把握していきたい」と語ったという。 6月19日には早稲田大学国防部の代表らと会合し森田必勝出会った森田三島を師と仰ぎ彼に体験入隊礼状として「先生のためには、いつでも自分命を捨てます」と贈った三島は、「どんな美辞麗句ならべた礼状よりも、あのひとことにはまいった」と森田返答した担当編集者菅原国隆三島作中人物なりきってしまう傾向危惧していたため、彼を鎌倉小林秀雄に連れて行き小林通じてそれとなく自衛隊への体験入隊止めるよう説得試みるが、逆に変な小細工をしたことで三島から不興買った当時三島は、「奔馬」に登場するような青年たちに出会ったことを、「恐いみたいだよ。小説書いたことが事実になって現れる。そうかと思うと事実の方が小説先行することもある」と担当編集者小島喜久江に語ったという。 9月下旬からはインド政府招きで、インドタイラオス夫人同伴旅行した第三巻暁の寺」の取材のため、単身ベナレスカルカッタ赴いた三島は、ノーベル文学賞受賞期待して加熱するマスコミ攻勢から逃れるためにバンコク滞留し、そこで自分捕まえた特派員徳岡孝夫知り合い2人意気投合した10月には『英霊の聲』とは違う形でありながらも、同根の〈忠義〉を描いた戯曲朱雀家の滅亡』を発表した同時期には『葉隠入門』『文化防衛論』などの評論多く発表され、『文化防衛論においては近松西鶴芭蕉もいない〉昭和元禄冷笑し自分は〈現下日本呪い手〉であると宣言するなど、戦後民主主義への批判明確に示した

※この「文と武の世界へ――奔馬」の解説は、「三島由紀夫」の解説の一部です。
「文と武の世界へ――奔馬」を含む「三島由紀夫」の記事については、「三島由紀夫」の概要を参照ください。

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