批評家等レビュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 21:37 UTC 版)
小藤田千栄子は「原作と全然違う。ヤクザ絡みのキャラクターを、あんなにも入れ込んだのは、やっぱり東映映画だったなーと、改めて思ったりする。『陽暉楼』は『鬼龍院花子の生涯』よりも、はるかにいい出来だったと思う。それはひとえに桃若という芸者さんのキャラクターの魅力であり、演じる池上季実子の、非のうちどころのない美しさによる。このキャラクターが輝いているから戦前の特殊社会を描きながらも、充分に現代劇としての力を持ち、共感できる女性映画になっているのである。池上季実子の美しさといったらなかった。あの目鼻立ちの良さは、めったにあるものではなく、加えて若さからくる美しさが伴い、それはもう輝くようであった。もう一つ加えると、やはり歌舞伎の血をひいているためか、着物姿の、その立ち姿がよく、あの若さで姿の美しさが出せる人はほかにいないのではないかと思ったほどである。『鬼龍院花子の生涯』の夏目雅子につぐ、若いスター女優の誕生を目の当たりに見る思いだった。だがヒロイン=桃若絡みの主筋を除くと、他のエピソードは、分かりにくいところが多かった。改めて原作を読んでみると『陽暉楼』以外の作品から、話を取って来ているのが分かる。桃若という芸者さんの短い生涯を描いた『陽暉楼』だけでは、映画にならないと、作り手たちが話を膨らませたのもよく分かる。それがヤクザ臭が強すぎ、あえていえば、膨らまし過ぎたゆえに、省略法を効かさざるを得ず、その結果、分かりにくさに繋がってしまったのである。それに原作よりも大向うを狙いすぎ、結果として映画そのもの品性に関わってきている気がするのである。桃若を中心とした女性群像劇に絞り込むことは出来なかったのだろうか。ちょっと惜しかった気がする。映画『陽暉楼』のメディアとしての圧勝は、池上季実子を中心に、芸者さんたちがずらりと揃って、お座敷に向かうシーンである。この華やかさは、なかなか文学では表現出来ない。この華やかさの表と裏を、女性群像劇一本で見たかったと思う。ついでながら、この映画のコピー「女は競ってこそ華、負けて堕ちれば泥」には引っかかった。一見人目をひくことは確かだけれど、これはあくまでも男の側の論理であり、女を見せもの視する、差別に非常に近い論理である」などと評している。 佐藤忠男は「『陽暉楼』はかつて任侠映画で一時代を築いた東映京都が、その技術と美学を久しぶりに存分に活かした豪奢な映画である。任侠映画というのは現代の歌舞伎と言っていいような独特の様式を持つものだったが、徹頭徹尾、男のヒロイズムだけで出来ていて、結局、ポルノと同様、女性の観客を映画館からはじき出す作用を果たしてしまった。しかも、鶴田浩二、高倉健に次ぐスターを育成できず、また、いくらなんでも任侠映画ばっかりというのも飽きられて、1963年から73年までの10年間の流行で終わった。そのご東映は実録路線に転じて更に殺伐たる男の世界を描いたり、ポルノ系統の作品を強化したが、女の客が来ないということはどうしようもなかったし、止むを得ないと、考えていたのだろう。昨年の『鬼龍院花子の生涯』は、侠客の親分を父とする女の物語という任侠映画のスタイルによる女性映画であり、これがヒットしたことは、やりようによっては東映に女性観客を呼び戻すことができる、という希望を与えたようである。そこで今度の『陽暉楼』になるが、これは『鬼龍院花子の生涯』と同じ宮尾登美子原作、高田宏治脚本、五社英雄監督というスタッフで、やくざの家の父と娘の話から、芸者屋の遊郭の話に広がった分だけ、女性の登場人物もぐっと多くなり、女たちの見せ場も派手になっている。高田宏治の脚本は、これに任侠映画でもA級のヒーローとして通用する男を書き加え、そこ任侠映画の美学で処理している。主軸となる芸者や女郎たちの意地のたてひきや義理人情という芝居は、任侠映画で男たちのドラマの陰に隠れていた部分を前面に押し出しさえすればいいので、東映京都としては、かつてのノウハウを動員していくらでも華やかに悲愴のやれるところである。そんなわけで、完全にかつての任侠映画を土台にしながら、それを男の意地の芝居から女の意地の芝居へと移し変えているわけだ。芸者たちをヒロインとするメロドラマというのは、日本映画には長い伝統があるが、大体が感傷的で、悲しい運命への忍従をテーマとしており、お座敷の舞いに見られるように徹底したスロー・テンポでヒロインの悲運があきらかに達するまでを耽美的に描くというのが定道だった。『陽暉楼』は、任侠映画のスタイルによる芸者ものであることによって、かつての芸者映画といくつかの点で違っている。ヒロインが悲しい運命をたどるという基本線は芸者映画の決して変わることない基本線として忠実に踏襲しているが、彼女たちは泣く泣くあきらめたりしない。また溝口健二の『祇園の姉妹』のように、男に反抗して社会への抗議をあげる、というだけでもない。もっと攻撃的であり、体を張って富や名声を獲得しようとする。ただ男に媚を売るだけでだけでなく、女同志でも暴力をふるい、その格闘の昻奪で血を湧かせて男にぶつかってゆく。男たちはただ女のセックスを求めるというよりも、女たちのその昻奪を金であがなおうとしているかのようでさえもある。美空ひばり主演の『べらんめえ芸者』といった作品を別にすれば、芸者をヒロインとする映画はしんねりと湿っぽいものだ、という既成概念を、この映画は飄爽とひっくり返している。当時西日本最大の社交場とかいう謳い文句つきの陽暉楼のエース芸者を池上季実子が演じ、これに対抗意識を燃やす女郎を浅野温子が演じていて、どちらも大熱演であり、その熱演をバックアップするセットや大勢の登場人物たちもたっぷりと贅沢である。それに女衒を演じる緒形拳が実にいい。任侠映画全盛時代の東映京都作品にも、こんなに見事にサマになったやくざはそうは見なかった。以上のように、良く出来た見せ場のたっぷりある作品だが、感動ということは別にない。ただ良く出来ていると思うだけである。それというのも、しんねりした芸者を攻撃的な芸者に変えたところで、芸者という存在そのものに対する考え方が古いものと本質的に変わっているわけではなく、つまりはショウアップしただけで、何を今更、という気分は終始ついてまわるからである」などと評している。 IKKOは本作を大好きな映画として挙げており、「この作品ですばらしいのは、女優たちの着物の着こなし。芸妓たちがずらっと並ぶシーンは壮観ですよ。特に池上季実子さんがすばらしい。川原でたたずむシーンがあるのですが、その美しさは筆舌に尽くしがたいものです。時代設定が昭和初期ですから、和髪(和装に合わせる髪型)のアーティストとしても、髪型の勉強にもなりました。内容もすばらしい。陽暉楼は女たちが命をかけて戦う場所。"女は競ってこそ花。負けて落ちれば泥"。このせりふ、すごいと思いませんか。悲しみを背負って生きていく女の哀愁に心ひかれるのです」などと評している。
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