心の彷徨――2度の落第とは? わかりやすく解説

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心の彷徨――2度の落第

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:46 UTC 版)

梶井基次郎」の記事における「心の彷徨――2度の落第」の解説

1923年大正12年1月、基次郎小説草稿卑怯者断片書いた体調悪化する冬、宇賀康への手紙で前年秋の自身蛮行振り返り、〈記憶再現する時に如実に感覚の上に再現出来ないこと〉が、過ち繰り返す原因分析し、〈人間登りうるまでの精神的高嶺達しえられない最も悲劇的なものは短命だと自分思ふ〉、〈どうか寿命だけは生き延び度い 短命を考へるとみぢめになつてしまふ〉と語った2月、基次郎は、佐藤春夫の『都会の憂鬱』を読んで感銘し自分内面の〈惨ましく動乱する心〉を〈見物の心で、追求〉させる技術的方法探り本格的な創作への道を歩み出した。また山田耕筰作品発表コンサート聴き行ったこの頃草稿彷徨」を書いた推定されている。いずれ死に至る病宿命として自覚していた基次郎は、その暗い意識逆手にとって生きることで、美なるもの、純粋なものをつかみ取ろうとしていた。3月畠田敏夫と六甲苦楽園遊び学期末試験放棄して再び落第決定した。 果なき心の彷徨――これだ、これを続けてゐるにきまつてゐる。それが一つ問題終らないうちに他へ移る。いやさうではなしに一つ問題を考へると必然次の考へへ移らねばならなくなる、それが燎原の火様にひろがつてゆく一方だ。これの連続だ、然しこれも疲れるときが来るのだらう。おれは今心がかなり楽しい様な工合からこれがかけるのだが、これも鬼の来ぬ間の洗濯で、あとでこれをかいたことの後悔が来るにきまつてゐるのだが、俺は今何かに甘えてこれをかいてゐるのだ。(中略この手紙はさばかれるだらうが、さばく奴に権威のある奴はない――かう思つて書きやめる。 — 梶井基次郎中谷孝雄宛て書簡」(大正12年2月10日付) 4月2度目3年生となり、上京区北白川下宿戻った理科生でありながら結核持ち文学青年の基次郎三高内で有名人となった破れた学帽釣鐘マント下駄ばき、汚れた肩掛けのズックカバンで授業出ずに、そこいら歩きまわっている風貌目を引き、「三高の主」「古狸」などと称される存在だった。同月近藤直人京都帝国大学医学部復学した劇研究会に文甲2年浅沼喜実が入部した5月上京区寺町荒神口下ル松蔭町京都御所の東)の梶川方に下宿移した(この下宿屋老婆30歳女教師の娘のことが、習作貧しい生活より」の題材となり、小説ある心の風景」の舞台部屋となる)。この頃母へ贖罪のための草稿母親」や、「矛盾のやうな真実」「奎吉」が書かれ劇研究会の回覧雑誌『真素木ましろき)』に、瀬山ポール・セザンヌをもじった筆名で「奎吉」を発表したまた、三高校友会・嶽会の文芸部理事になった外村茂頼まれ、『嶽雑誌』に「矛盾の様な真実」を投稿した。2作とも、内面外面との落差などを描いた小品であった。この校友会誌作品投稿したことのあった文甲1年生武田麟太郎は、ある日グラウンドで基次郎から突然話しかけられ、「矛盾の様な真実」の感想求められた後、同号はくだらない作品ばかりだったから、今度君がいいものをきっと書いてくれと丁寧に言われたという。 6月近藤直人下宿左京区南禅寺草川町変わり、基次郎頻繁にここを訪ねた雑誌改造』に掲載され若山牧水の「みなかみ紀行」を読んで宇賀康に送った宇賀5月上旬幽門閉塞危篤となり、お茶の水順天堂病院入院し手術を受け、病院駆けつけた基次郎はそこに留まって看病していた。その後次郎学期末試験向けて勉強励んだ7月有島武郎軽井沢の別荘心中した事件中谷孝雄から聞き、基次郎はしばらくショックで口もきけなくなり考え込んでしまった。同月、「矛盾の様な真実掲載の『嶽雑誌』(第84号)に詩を発表していた文丙3年丸山薫東京高等商船学校卒業後に三高入学したため当時24歳)に基次郎話しかけて知り合った四国小松島三高水泳所に行ったこの頃八坂神社石段西北カフェー舞台にした草稿「カッフェー・ラーヴェン」が書かれたと推定される8月、軍の簡閲点呼を受けるため大阪帰り、父・宗太郎別府温泉旅行したビール飲みながら、有島武郎自殺事件について激論となったこの頃には日向の「新しき村」の武者小路実篤四角関係も新聞ネタになっていた。別府からの帰路1人船で帰った次郎は、トルストイ『戦争と平和』耽読し、この船旅のことを草稿瀬戸内海の夜」に書いた9月劇研究会の公演準備チェホフの『熊』、シングの『鋳掛屋結婚』の演出担当山本有三の『海彦山彦』)で、「多青座」を組織し同志社女子専門学校(現・同志社女子大学)の女学生2人石田竹子梅田アサ子)を加えて万里小路新一条上ルに部屋借りて稽古した。しかし、それが不謹慎だという噂が広まり10月校長森外三郎より、関東大震災のあとの自粛という表向き理由公演中止命令出された。 すでに衣裳準備し前売り券売っていたため、『日出新聞』に中止広告出して公演当日10月17日には会場払い戻し作業追われた。後始末のための金は校長から100円渡されたが、外村茂や基次郎公演中止激しく憤った。これがのち、〈恥あれ!あれ! かかる下等な奴等に! そこにはあらゆるものに賭けて汚すことを恐れた私達の魂があつたのだ〉と5年後もなお尾を引いて綴られることになった。 基次郎払い戻し終えると、祇園神社石段下の北側にあった「カフェ・レーヴン」で酒を飲んで暴れた悔し涙で再び基次郎泥酔日々始まり外村茂浅見篤中谷孝雄付き合ったカフェーには、関東大震災後大杉栄官憲虐殺され甘粕事件)、京都逃げてきたアナーキストらが多く出入りしていたため、彼らもその空気影響された。酔うと基次郎外村茂を「豪商外村太郎商店御曹司」と揶揄し、4人一緒に大声で「監獄をぶっこわせ」と高吟して夜の街練り歩き看板壊して暴れ回った。 基次郎は、円山公園湯どうふ屋で騒ぎ巡査捕まり四つん這いになり鳴き真似させられた。また、当時京都有名だった兵隊竹」という無頼漢ヤクザカフェー喧嘩をし、左の頬をビール瓶なぐられ怪我をして失神した。その頬の傷痕生涯残った11月北野中時代からの友人宇賀康、矢野潔、中出丑三の悪口綴った葉書をわざと宇賀宛て出したりした。この頃、「瀬山の話」第2稿書いていた。

※この「心の彷徨――2度の落第」の解説は、「梶井基次郎」の解説の一部です。
「心の彷徨――2度の落第」を含む「梶井基次郎」の記事については、「梶井基次郎」の概要を参照ください。

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