心の彷徨――2度の落第
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「梶井基次郎」の記事における「心の彷徨――2度の落第」の解説
1923年(大正12年)1月、基次郎は小説草稿「卑怯者」断片を書いた。体調の悪化する冬、宇賀康への手紙で前年秋の自身の蛮行を振り返り、〈記憶を再現する時に如実に感覚の上に再現出来ないこと〉が、過ちを繰り返す原因と分析し、〈人間が登りうるまでの精神的の高嶺に達しえられない最も悲劇的なものは短命だと自分は思ふ〉、〈どうか寿命だけは生き延び度い 短命を考へるとみぢめになつてしまふ〉と語った。 2月、基次郎は、佐藤春夫の『都会の憂鬱』を読んで感銘し、自分の内面の〈惨ましく動乱する心〉を〈見物の心で、追求〉させる技術的方法を探り、本格的な創作への道を歩み出した。また山田耕筰の作品発表コンサートを聴きに行った。 この頃に草稿「彷徨」を書いたと推定されている。いずれ死に至る病を宿命として自覚していた基次郎は、その暗い意識を逆手にとって生きることで、美なるもの、純粋なものをつかみ取ろうとしていた。3月、畠田敏夫と六甲苦楽園で遊び、学期末試験を放棄して再び落第が決定した。 果なき心の彷徨――これだ、これを続けてゐるにきまつてゐる。それが一つの問題が終らないうちに他へ移る。いやさうではなしに一つの問題を考へると必然次の考へへ移らねばならなくなる、それが燎原の火の様にひろがつてゆく一方だ。これの連続だ、然しこれも疲れるときが来るのだらう。おれは今心がかなり楽しい様な工合だからこれがかけるのだが、これも鬼の来ぬ間の洗濯で、あとでこれをかいたことの後悔が来るにきまつてゐるのだが、俺は今何かに甘えてこれをかいてゐるのだ。(中略)この手紙はさばかれるだらうが、さばく奴に権威のある奴はない――かう思つて書きやめる。 — 梶井基次郎「中谷孝雄宛ての書簡」(大正12年2月10日付) 4月、2度目の3年生となり、上京区北白川の下宿に戻った。理科生でありながら、結核持ちの文学青年の基次郎は三高内で有名人となった。破れた学帽に釣鐘マントと下駄ばき、汚れた肩掛けのズックカバンで授業も出ずに、そこいらを歩きまわっている風貌も目を引き、「三高の主」「古狸」などと称される存在だった。同月、近藤直人は京都帝国大学医学部に復学した。劇研究会に文甲2年の浅沼喜実が入部した。 5月、上京区寺町荒神口下ル松蔭町(京都御所の東)の梶川方に下宿を移した(この下宿屋の老婆と30歳の女教師の娘のことが、習作「貧しい生活より」の題材となり、小説「ある心の風景」の舞台部屋となる)。この頃、母への贖罪のための草稿「母親」や、「矛盾のやうな真実」「奎吉」が書かれ、劇研究会の回覧雑誌『真素木(ましろき)』に、瀬山極(ポール・セザンヌをもじった筆名で「奎吉」を発表した。 また、三高校友会・嶽水会の文芸部理事になった外村茂に頼まれ、『嶽水会雑誌』に「矛盾の様な真実」を投稿した。2作とも、内面と外面との落差などを描いた小品であった。この校友会誌に作品を投稿したことのあった文甲1年生の武田麟太郎は、ある日グラウンドで基次郎から突然話しかけられ、「矛盾の様な真実」の感想を求められた後、同号はくだらない作品ばかりだったから、今度君がいいものをきっと書いてくれと丁寧に言われたという。 6月、近藤直人の下宿が左京区南禅寺草川町に変わり、基次郎は頻繁にここを訪ねた。雑誌『改造』に掲載された若山牧水の「みなかみ紀行」を読んで宇賀康に送った。宇賀は5月上旬に幽門閉塞で危篤となり、お茶の水の順天堂病院に入院し手術を受け、病院に駆けつけた基次郎はそこに留まって看病していた。その後基次郎は学期末試験に向けて勉強に励んだ。 7月、有島武郎が軽井沢の別荘で心中した事件を中谷孝雄から聞き、基次郎はしばらくショックで口もきけなくなり考え込んでしまった。同月、「矛盾の様な真実」掲載の『嶽水会雑誌』(第84号)に詩を発表していた文丙3年の丸山薫(東京高等商船学校卒業後に三高に入学したため当時24歳)に基次郎は話しかけて知り合った。四国小松島の三高水泳所に行ったこの頃、八坂神社石段の西北のカフェーを舞台にした草稿「カッフェー・ラーヴェン」が書かれたと推定される。 8月、軍の簡閲点呼を受けるため大阪に帰り、父・宗太郎と別府温泉へ旅行した。ビールを飲みながら、有島武郎の自殺事件について大激論となった。この頃には日向の「新しき村」の武者小路実篤の四角関係も新聞ネタになっていた。別府からの帰路は1人船で帰った基次郎は、トルストイの『戦争と平和』を耽読し、この船旅のことを草稿「瀬戸内海の夜」に書いた。 9月、劇研究会の公演準備(チェホフの『熊』、シングの『鋳掛屋の結婚』の演出担当、山本有三の『海彦山彦』)で、「多青座」を組織し、同志社女子専門学校(現・同志社女子大学)の女学生2人(石田竹子と梅田アサ子)を加えて、万里小路新一条上ルに部屋を借りて稽古した。しかし、それが不謹慎だという噂が広まり、10月に校長・森外三郎より、関東大震災のあとの自粛という表向きの理由で公演中止命令が出された。 すでに衣裳も準備し前売り券も売っていたため、『日出新聞』に中止の広告を出して、公演当日10月17日には会場で払い戻し作業に追われた。後始末のための金は校長から100円を渡されたが、外村茂や基次郎は公演中止に激しく憤った。これがのち、〈恥あれ! 恥あれ! かかる下等な奴等に! そこにはあらゆるものに賭けて汚すことを恐れた私達の魂があつたのだ〉と5年後もなお尾を引いて綴られることになった。 基次郎は払い戻しを終えると、祇園神社の石段下の北側にあった「カフェ・レーヴン」で酒を飲んで暴れた。悔し涙で再び基次郎の泥酔の日々が始まり、外村茂や浅見篤、中谷孝雄も付き合った。カフェーには、関東大震災後に大杉栄が官憲に虐殺され(甘粕事件)、京都に逃げてきたアナーキストらが多く出入りしていたため、彼らもその空気に影響された。酔うと基次郎は外村茂を「豪商外村吉太郎商店の御曹司」と揶揄し、4人一緒に大声で「監獄をぶっこわせ」と高吟して夜の街を練り歩き、看板を壊して暴れ回った。 基次郎は、円山公園の湯どうふ屋で騒ぎ、巡査に捕まり、四つん這いになり犬の鳴き真似をさせられた。また、当時京都で有名だった「兵隊竹」という無頼漢ヤクザとカフェーで喧嘩をし、左の頬をビール瓶でなぐられ、怪我をして失神した。その頬の傷痕は生涯残った。11月、北野中学時代からの友人・宇賀康、矢野潔、中出丑三の悪口を綴った葉書をわざと宇賀宛てに出したりした。この頃、「瀬山の話」第2稿を書いていた。
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