失われた週末
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 16:00 UTC 版)
レノンはパンと18か月の愛人関係にあった期間を、後に同タイトルの映画・小説から「失われた週末」と呼んだ。 1973年半ば、パンはレノンのアルバム『マインド・ゲームス』のレコーディングに取り組んでいた。当時レノンとオノは夫婦間の問題を抱えており、別居する事ことにした。そしてオノはパンにレノンの同居人になるよう提案した。オノはレノンとうまくいっておらず、言い争いをしては仲違いしていると説明し、レノンは他の女性に目移りするだろうと言った。更にレノンがパンが性的に魅力的だと思うと言っていたと伝えた。パンは彼女の雇用主でありオノの夫でもあるレノンとの関係を始めることは絶対にできないと返答した。オノはパンの抗議を無視し、すべて予定通り手配すると言い渡した。オノは後のインタビューでこのやり取りを追認した。1973年10月、レノンとパンは『マインド・ゲームス』のプロモートのためニューヨークを離れてロサンゼルスに向かい、友人宅にしばらく滞在した。 滞在中、レノンは2つのレコーディング・プロジェクトに着手するように勧められた。ミュージシャンになるきっかけとなった古いロックン・ロールの曲を集めたアルバムの作成と、他のアーティストのプロデュースである。1973年12月、レノンはフィル・スペクターと協力して、オールディーズのアルバム『ロックン・ロール』をレコーディングした。酒に焚き付けられたレコーディング・セッションは伝説的なものとなった。ロサンゼルスのすべてのミュージシャンが参加を望んだが、直ぐにレノンの飲酒とスペクターの常軌を逸した行動(スタジオのコントロール・ルームでの銃の発砲など)によりセッションは中断した。その後、スペクターは自動車事故に遭って、レコーディングテープが行方不明になったと主張した。 1974年3月、レノンはハリー・ニルソンのアルバム『プシー・キャッツ(英語版)』の制作を開始した。このアルバムタイトルは、トルバドール(英語版)での2度の飲酒事件でメディアから刻印された「バッドボーイ」のイメージに対抗するため名付けられた。一度目はレノンが額に生理ナプキンを付けて、当時お気に入りのレコードの1つであった「アイ・キャント・スタンド・ザ・レイン」をリリースしたアン・ピーブルスのコンサートでウェイトレスと乱闘し、二度目はその2週間後、レノンとニルソンがスマザーズ・ブラザーズ(英語版)を野次った後、クラブから叩き出された。レノンがミュージシャンが時間通りにスタジオに集まれるように1つ屋根の下に住むのは良い考えだと判断したので、パンはサンタモニカに彼女とレノン、ニルソン、リンゴ・スター、キース・ムーンが住むためのビーチハウスを借りた。この時期、パンはレノンに家族や友人に手を差し伸べるよう勧めた。彼とポール・マッカートニーは関係を修復し、ビートルズの解散後初めて一緒にプレイした(en:A Toot and a Snore in '74を参照)。更にパンはジュリアン・レノンが、ほぼ4年ぶりに父親のもとに訪れるよう手配した。 ジュリアンは、より定期的に父親と会うようになった。レノンは1973年のクリスマスにジュリアンにギブソン・レスポールのギターとドラムマシンをプレゼントし、いくつかコードを弾いて見せてジュリアンの音楽への興味を促した。「父と私の関係は以前よりずっと良くなった」とジュリアンは回想する。「彼がメイ・パンと一緒にいた時、私たちはとても楽しく、沢山笑い、全般的に素晴らしい時間を過した。父とメイとの当時の私の思い出は非常に鮮明だ。―それは私が彼らと共に思い出せる最も幸せな時間だった。」 1974年6月、レノンとパンはマンハッタンに戻った。レノンは飲酒をやめ、レコーディングに集中した。レノンは以前リバプールのミミ伯母(英語版)の家に住んでいた時、猫を飼っていた。彼とパンはメジャーとマイナーと名付けた2匹の猫を飼った。同年初夏、2人は東52番街434のペントハウスアパートメントに移り、レノンはアルバム『心の壁、愛の橋』に取り組んだ。8月23日、レノンとパンは、クイーンズのパノラマビューを望むテラスからUFOを見たと語った。デッキに辿り着くため、2人は台所の窓から登らなければならなかった。その夜、裸のレノンが興奮してパンを呼び寄せ、外のデッキで合流した。2人は共に100フィート以内の距離に静かに浮かぶ円形の物体を見た。レノンは、彼の「公認の」写真家であるボブ・グルーエン(英語版)に電話し、起こっている事を話した。グルーエンは警察を呼ぶべきだと提案したが、レノンは笑い飛ばし、新聞を呼んで「私はジョン・レノンです。昨夜空飛ぶ円盤を見ました」と言うつもりは無いと言った。グルーエンは地元の警察署に電話し、他に3人の目撃証言があることを確認した。デイリーニューズはレノンとパンが住むニューヨークの同じ地域で5人の目撃証言がある事を報じた。レノンは自身の曲「ノーバディ・トールド・ミー」で、この事件について言及している。 『心の壁、愛の橋』はアルバムチャートでトップの座に上り詰めた。更に「真夜中を突っ走れ」で、生涯で唯一のアメリカにおけるナンバーワン・シングルを達成した。パンは「夢の夢」でレノンの名前を囁いている。「予期せぬ驚き」はパンについて書かれている。ジュリアンはアルバムの最後のトラック「ヤ・ヤ」でドラムを演奏した。『心の壁、愛の橋』のレコーディング中、キャピトル・レコードのプロモーション担当副社長アル・クーリー(英語版)は、スペクターの混沌としたセッション・テープを手に入れ、ニューヨークに持ち込んだ。レノンは『心の壁、愛の橋』で組んだのと同じミュージシャンと共に、オールディーズのアルバム『ロックン・ロール』を完成させた。パンは『心の壁、愛の橋』でRIAAゴールド・レコード賞を受賞し、アルバム『ロックン・ロール』の制作コーディネーターとしての仕事を続け「Mother Superior」としてクレジットされた。また、ニルソン、スター、エルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイのアルバムにも取り組んだ。 ニューヨーク州モントーク(英語版)のアンディ・ウォーホルの屋敷にミック・ジャガーを訪ねた時、レノンとパンはモントーク・ポイント灯台(英語版)の近くで売りに出されているスコットランド風のコテージを見かけた。1975年2月、レノンは不動産ブローカーに買い取りを依頼した。同月、レノンとパンは、ウイングスがアルバム『ヴィーナス・アンド・マース』をレコーディングしているニューオーリンズにポールとリンダ・マッカートニーを訪問する計画を立てていたが、オノがレノンの喫煙習慣に対する新しい治療法があると言った後、訪問予定の前日にレノンはオノに従った。会合の後、レノンは家に帰ることもパンに電話することもできなかった。パンが翌日電話をかけた時、オノはレノンは催眠療法の施術後で疲れ果てているので面会はできないと言った。2日後、レノンは共通の歯科予約で姿を見せた。パンがレノンは洗脳されたに違いないと思う程、彼はぼうっとして混乱していた。レノンはパンにオノと和解したので、2人の関係は終りだと語った。その後の数年間、パンは内密にレノンと数回会ったが、彼らの関係が再燃する事は無かった。 レノンはこの期間を公的には後悔してみせているが、私的には後悔していない。1964年からレノンと親交のあるジャーナリストのラリー・ケイン(英語版)は、「失われた週末」の期間を詳述したレノンの包括的な伝記を書いた。ケインとのインタビューで、レノンはパンと過した時期について「ラリーの知っての通り、私は今までで一番幸せだったかも知れない...私はこの女性(パン)を愛し、何曲か美しい音楽を作り、大酒やたわ言やその他もろもろで色々とやらかした。」と説明した。
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