天上天下唯我独尊
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天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん[1][2][3][4]、または、てんじょうでんがゆいがどくそん)とは、釈迦が誕生した際に宣言したとされる言葉。
古い漢訳仏典には「天上天下唯我為尊」との表記が見られる[5]。
形成過程


仏教の教義では、兜率天にいた釈迦は白象に化して母マーヤーの胎内に宿り、産みの苦しみを与えないためマーヤーの産道を通らず右の脇腹より生まれ出たとされる[6]。そして生誕した釈迦は七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と宣言したとされる。釈迦は生誕時には過去世の記憶を保っており上記の宣言をしたが、その後普通の人間と同じく過去世の記憶を失った。時は流れて釈迦が悟りを開いてブッダになると六神通を得て、六神通の一つである宿命通によって釈迦は過去世の記憶を全て取り戻した、と説明される。
大乗非仏説では、大乗仏教は上座部仏教よりも後発の宗派であると説明される。大乗非仏説では、釈迦の直説は、恐らく上座部仏教の教義に近い内容だったと考えられており、釈迦は輪廻転生の存在を事実と認め、苦に満ちたこの世界で輪廻転生を繰り返すのは生に対する執着があるからで、欲や執着を絶ちこの世界に再び生まれ出ることがなければ苦を受けることはない、輪廻から解脱して涅槃に入るべきだと説いた。すなわち釈迦が目指したのは「死後に天界を含めて二度と生まれ変わらないこと」だったと説明される[7]。佐々木閑は「釈迦はこの世を一切皆苦ととらえ、輪廻を断ち切って涅槃に入ることで、二度とこの世に生まれ変わらないことこそが究極の安楽だと考えた」「(釈迦の説く涅槃とは)悟りを開いた者だけが到達できる特別な死であり、二度とこの世に生まれ変わることのない完全なる消滅を意味する」と論じている[8][9]。
上座部仏教の『パーリ仏典』希有未曾有法経では釈迦の生誕時の言葉について「私はこの世界で最上の者である。これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれることはない」、すなわち私は前世で功徳を累積し誰も到達したことのない悟りに最も近い者である、これまで輪廻転生を繰り返してきたが、今世の生で悟りを得て解脱し涅槃に入ってみせるという釈迦の決意表明として説明されている[10]。上座部では、釈迦は六道輪廻の中で善行を積み天界(兜率天)に転生していたが、成道のため現世に降下したと解釈する[11]。
しかし大乗仏教では三身説や久遠常住などの教義が生まれ「釈迦は衆生を救うため法身仏に遣わされた仏である、または法身仏の化身である」「応身の釈迦は80歳で肉体を捨てて法身として仏界に帰った」というような教義解釈、例えるならばキリスト教の両性説のような解釈をとるようになった[12]。つまり釈迦は入滅後も法身仏として存在していると解釈している。こうした理由によるためか後半の「これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれることはない」が省かれて前半のみの「天上天下唯我独尊」となり意味合いが分かりにくくなっている、と説明される[13]。
『ブッダチャリタ』では生誕した釈迦の誕生時の言葉について「天上天下唯我独尊」ではないが、「私のこの生は仏に成るための生であり、現世での最後の生である。私はただこの一度の生で全ての衆生を救済してみせよう」と伝えている。意味合いとしては、これまで私は輪廻転生を繰り返してきたが、今回の生で悟りを開いて仏陀になり、苦に苦しむ衆生に輪廻から解脱する方法を教授したのち、自らも涅槃に入ってみせるという釈迦の決意表明になっている[14][15]。『ブッダチャリタ』は上座部仏教寄りの立場から描かれており、涅槃に入った者は生まれ変わらなくなると解釈するため、釈迦は「現世での最後の生」だと宣言している[14][15][16]。
仏典等での既述
『大唐西域記』(646年成立)の中に記載されている、釈迦の誕生当時を伝える誕生偈と呼ばれる偈文には、
天上天下 唯吾獨尊
今茲而往 生分已盡[17]
という一節が記されている。 これを訳すと
- この世界の中で我のみが尊い。
- 今ここに生まれてきたが、再び生まれ変わることはない。
つまり誰も到達したことのない悟りに最も近い者であるから「唯我独尊」であり、今世の生で悟りを得て解脱し涅槃に入ってみせるという釈迦の決意表明になっている。
釈迦の誕生を伝える漢訳仏典には、『佛本行集経』卷八・樹下誕生品下、『佛説太子瑞應本起経』卷上など様々あるが、代表的な『修行本起経』卷上・菩薩降身品第二には、
天上天下唯我為尊 三界皆苦吾当安之
欲界・色界・無色界の三界の迷界にある衆生はすべて苦に悩んでいる。私はこの苦の衆生を安んずる(解脱させる)ために誕生したのだから、尊いとしている。
現代の解釈
伝統的には「この世で自分こそが尊い」と解釈されるが、「この世のすべてが尊い」とする解釈もある[18]。後者の解釈は、仏教学者の中村元や、浄土宗・真宗大谷派・浄土真宗本願寺派などの出版物が提示している[18]。同様の解釈は前近代からあったが、広まったのは近代からとされる[19]。
天台宗尼僧の露の団姫は、「この広い世界のなかで、私たち人間にしかできない尊い使命がある」と解釈している[20]。
日本語の慣用句としての「唯我独尊」は、「この世で自分ほど偉いものは居ない」といううぬぼれの意味で用いられる[21]。
脚注
- ^ 天にちあ、やおらあり、たつやおま、用語 | 読むページ | 大谷大学
- ^ 禅語「天上天下唯我独尊」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト
- ^ 禅語に親しむ 平成26年度: 天上天下唯我独尊(著・木村文輝)
- ^ コトバンク:故事成語を知る辞典 「天上天下唯我独尊」の解説
- ^ 門川徹眞「佛傳における誕生偈の形成過程」『印度學佛教學研究』第15巻第2号、日本印度学仏教学会、1967年、614-615頁、doi:10.4259/ibk.15.614、ISSN 0019-4344、 NAID 130003828683。
- ^ 梶山 2021, p. 31-35.
- ^ 佐々木閑『ブッダ 最期のことば』NHK出版 2016年、p22-24
- ^ 佐々木閑『ブッダ 最期のことば』NHK出版 2016年、p22-24
- ^ 佐々木閑『いかにして多様化したか 部派仏教の成立』NHK出版 2025年、p85-86
- ^ “新興宗教からマンガまでを貫く心性とその出離|仏陀再誕はあり得ない ②”. 佐藤哲朗(日本テーラワーダ仏教協会編集局長). 2025年8月20日閲覧。
- ^ “新興宗教からマンガまでを貫く心性とその出離|仏陀再誕はあり得ない ②”. 佐藤哲朗(日本テーラワーダ仏教協会編集局長). 2025年8月20日閲覧。
- ^ 植田重雄「宗教学的見地における仏身論」(1976年)
- ^ “新興宗教からマンガまでを貫く心性とその出離|仏陀再誕はあり得ない ②”. 佐藤哲朗(日本テーラワーダ仏教協会編集局長). 2025年8月20日閲覧。
- ^ a b 平川 1998, p. 15-17.
- ^ a b 石上 1993, p. 65.
- ^ “新興宗教からマンガまでを貫く心性とその出離|仏陀再誕はあり得ない ②”. 佐藤哲朗(日本テーラワーダ仏教協会編集局長). 2025年8月20日閲覧。
- ^
玄奘 (中国語), 大唐西域記/06, ウィキソースより閲覧。)
- ^ a b 清水俊史『ブッダという男 初期仏典を読みとく』筑摩書房〈ちくま新書〉、2023年。 ISBN 978-4480075949。161頁。
- ^ 西義人「近代における「天上天下唯我独尊」の説示(発表要旨)」日本仏教学会、2018年
- ^ 「人生が100倍オモシロくなる仏の教え」露の団姫
- ^ 。新明解四字熟語辞典(三省堂)
参考文献
- 梶山雄一『大乗仏教の誕生 「さとり」と「廻向」』講談社、2021年。 ISBN 978-4065237823。
- 石上善應『佛典講座5 仏所行讃』大蔵出版、1993年。 ISBN 978-4804354330。
- 平川彰『仏陀の生涯『仏所行讃』を読む』春秋社、1998年。 ISBN 978-4393132937。
関連項目
天上天下唯我独尊と同じ種類の言葉
六道に関連する慣用句 | 餓鬼の物をびんずる 餓鬼も人数 天上天下唯我独尊 天使が通る 天命を知る |
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