増設の申し入れと福島県の不信感
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「福島第一原子力発電所7、8号機の増設計画の経緯」の記事における「増設の申し入れと福島県の不信感」の解説
原子炉増設に際しては県知事の了解を得る必要があり、知事の動向は注目され続けた。まず、この点について説明する。東京電力は福島第一原子力発電所1号機の建設に伴い、1969年4月に県と安全協定を締結したがこの協定は1973年2月19日に最初の改訂が行われ、第2条において「発電所の新増設計画、冷却水の取廃水計画およびそれらの計画に伴う土地の利用計画などについて、事前に県の了解を得るもの」と取決めされた。以降の改訂においても県の了解を必要とする旨の規定は残された。 東京電力が県に正式申し入れをする前に、不可解な説明を行っている旨が佐藤栄佐久から指摘されている。まず、1994年7月1日、社長の荒木浩が訪れ、マスコミの居ない場での会談で「明治以来の発電への貢献に対する礼」と称して下記を提示した。 浜通りにJリーグナショナルトレーニングセンター(略称NTC、後のJビレッジ)の建設 中通り振興のため郡山にJリーグサッカースタジアムを建設しチームを誘致 会津地方に美術館の建設 これに対して佐藤栄佐久は賛意を示した。しかし、翌8月22日に東京電力の担当者が来庁した際には佐藤栄佐久に会いもせず、7・8号機の増設とトレーニングセンターの建設だけが記者会見で明らかにされた。マスメディアはトレーニングセンターを見返りとして報じ、佐野鋭のようにNTCの建設を「東電が県に送った絶妙なパス」と評する向きもあったが、7月の会談では7・8号機の話は出ていなかったため、佐藤栄佐久は「東電が自分を欺いた」と受け取った。 福島県に対しては1994年9月に正式な申し入れをし、その当時の運転開始予定は7号機が2004年度、8号機が2005年度だったが、この頃から上記共用プール設置問題などを端緒として東京電力に対して佐藤栄佐久は不信感を持っており、県の姿勢が報じられる時は常に「慎重」の言が付随した。 福島県も佐藤栄佐久の意向と歩調を合わせ、双葉町などが進める増設誘致には冷淡だった。県が慎重姿勢を取ったのは下記の理由によるとされる。 知事である佐藤栄佐久が抱いた東京電力への不信感 県は「広域的」かつ「恒久的」な地域振興の方策を模索しており、増設では問題の解決に繋がらないと考えたこと。 北側の相馬、原町両市他2市3町1村で構成される「相馬広域市町村協議会」が増設反対の意見書を採択しており、双葉町だけに目を向けている訳ではない福島県も、このような事情や相双地帯としての地域の一体性(佐野は新聞の地方版が一体であることを例示)を考慮した。 浪江・小高原子力発電所の用地買収が舛倉隆率いる反対運動で停滞していた事との関係性。本件は1968年以来の経緯があり、増設決議のように短期間で浮上した案件ではなく、国から要対策重要電源指定を受けていた。すぐ隣の双葉町で増設計画が進行すれば、東北電力と共に用地取得を進めてきた県の面目が潰れる。ただし、福島県はこの見方を否定している。 1988年の県知事選挙でのしこり。佐藤栄佐久の対抗馬であった広瀬元建設省技監を押していた当時の自民党主流派のリーダーは天野光晴元建設大臣で、双葉町の出身でもあったため、双葉地方の町村長は広瀬を支援した。しかし佐藤栄佐久が当選したため、双葉地方との関係がしこりとして残ったとされる。 佐野鋭によるとこうした懸念材料に対して、東京電力は上記の知事への交渉の他、地道に足固めを行っていた。地元での勉強会への参加していた他、例えば1994年3月、浪江と双葉の青年会議所が「豊かな海、輝く海との共生」という提言書をまとめた件が挙げられている。陰で東京電力のスタッフが入れ知恵をしており、青年会議所を足掛かりに政界に進出した佐藤栄佐久を心理的に揺さぶるための策だったという。 なお、トレーニングセンターの建設費は約130億円と見込まれたが、7・8号機の増設後の償却年数で割ると1kW辺り7銭となる。『日経産業新聞』の後藤康浩は、発電原価1kW辺り10円と仮定しても、その1%にも満たない旨を提示しつつ、「わずかに見えるが、この数値が今後、原発新規立地の際に地元から電力会社に施設建設を要求する基準にならないとも限らない」と警鐘している。また、増設計画の公表に際して『政経東北』は「昭和四十六年に運開した福島第一原発1号機は平成十三年ごろには更新時期を迎える。(中略)更新時期になったとき、原発立地県はどう対応するのか。原発の先進県、日本一の原発立地県である福島県で、この点にまで言及している人は誰もいない」と評している。 東京電力は1995年に県に対して環境アセスメントの申し入れを行い、知事はアセスメント実施を受け入れを表明した。また東京電力から正式な地元自治体への増設申し入れは1997年1月まで延期された。なお、7・8号機の立地見返りの意味を含ませて建設されたJビレッジは1997年夏の完成を予定していたが、これを見込んでの時期決定でもあった。 しかしながら、1997年3月11日には動力炉・核燃料開発事業団の東海事業所再処理施設アスファルト固化処理施設で火災爆発事故が発生し、その収束過程で情報隠しや泥縄的対応が指摘されていたため、佐藤栄佐久は「動燃問題の結末が見えなければ着手しない」と手続きを進めることに否定的だった。その後、佐藤栄佐久は2000年2月8日に副社長の種市健が設備投資の圧縮により、新規電源の開発計画を3~5年凍結すると発表した際、(増設誘致と同時期に計画進行していた既設プラントでの)「プルサーマルを受け入れなければ福島県の他の発電所の建設もやめるよ」という脅しと解釈し、7・8号機の増設については「私は認めるつもりはなかった」と回顧している。 もっとも、共産党が1999年4月の県議会で初めて5議席を獲得し、議会内交渉会派となった際、『政経東北』は「口では慎重論を唱えながら、Jビレッジほか百六十億円にも上る高額の寄付を東京電力から受けている。「これはこれ、それはそれ」といった言い訳は世間に通用する話ではない。」「環境アセスメント報告書受理など、「外堀から埋めてください」と言わんばかり」と共産党が議会で狙い撃ちにしてくる可能性を前提としつつ、佐藤栄佐久を批判している。
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